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翌日の朝七時だった。電話の音は突然鳴った。
あの日の電話の相手だった。私は出たことを後悔した。彼は電話に出ると「もしもし」の一言もなく、ただ話題を突っ込んできたのだ。拒否しても引き下がらないのもまた、こいつのクズさがわかりやすい。
「頼む、聞きたいことがあるんだ」
「だから、なんて聞くの?」
「それを言ったら君はその子に伝えちゃうだろ?」
「香澄のためにも、やめてあげてよ。今デリケートな時期だから」
「だからこそ聞きたいんだよ」
前の電話も受けてわかったが、やはりこいつからの電話になんて出るべきではないのだ。『君に頼み事がある。時間ある時電話して』というメールを真に受けた私がバカだった。
「香澄に合って話がしたい」それが彼の要件だった。正直言うと、首を縦に振りたくなかった。とにかく今は、彼の香澄に対する信用がなさすぎる。どういうことなのか、と話を問い詰めてみても、何を聞くのかも答えず、意図も話さず、いくら他人とはいえあまりにも雑過ぎる。なにしろ「もうすぐ死ぬ人」にやたら質問をすれば、更に死期を早めてしまうかもしれない。
「とにかく、香澄に危害が加えられたら困るから」
「香澄さんに許可を取ればいいじゃない」
「薫…」
ため息と共に聞こえてきた、ペラリという薄い紙を捲る音。理科の教科書かもしれない。勉強中に電話をかけるなんてあいつらしくなくて、なんだかへんな居心地がある。
朝ご飯に焼いた納豆トーストときゅうりの漬物、それに温めた前夜のきのこ味噌汁。その表面は湯気と混じって、涙と同じ輝きを放っている。それを無視してきゅうりを箸に刺して口に入れる。きゅうりの独特の咀嚼音でわかったのか、「おい、ご飯中に電話はみっともないぞ」と言われた。「忙しい早朝七時に電話してくるお前に言われたくない、うるさい」と返したが、「今日は午後から学校だろ?正論ぶるな」と一喝入れられてしまった。激怒しそうになったところで耳に入ってきた「ところで」の声で、私は咀嚼を止める。しょっぱい味がむわっと口に大きく広がる。逆ギレを間一髪で抑えられた自分に拍手。
「香澄さんがゆとりで話してた感じを考察して言わせてもらう。あくまで僕の主観として、あの子、本当に死ぬよ。だからこそ、自己中心的な態度にあっけらかんとした雰囲気があるんだ。あんなに淡々と死に対する意見が言えるなら、おそらく僕の話もそこまで苦ではないはず」
「あんた頭いいのをこういうところで使わないでくれる?」
「自分の願望のために頭脳使って何が悪いよ」
「…ああもう、わかったよ」
私が根負けしたことを察したように、彼は画面越しに「ごめんね」と呟いた。まるで幼稚園児が自分の悪さを納得してない時の一発目の謝罪ようだった。「ああもう」の響きは思ったよりリビングに響き、まだ寝ている姉たちに聞こえているんじゃないかと少し怖くなる。しかし雪が吸収したのか、音は瞬く間に空気中に溶け込んでいった。彼はまだ、私の返事を待っていた。
「じゃあ今日学校行った時、香澄に聞いてみるから」
「おっけ、ありがとう」
軽い返事の後で、長い機械音は、私が知らぬ間に流れていた。お皿の並んだテーブルにひとつ、バイブを鳴らして騒ぐ機械がポツリと置かれていた。電話を切ったのは、彼の方だった。その音越しに、また紙の音が聞こえてくるのではと耳を澄ましたが、いつまで経っても来なかった。唯一聞こえたかちゃり、という音は、私の箸とお皿が触れ合った時の音だった。
そのうち姉は起きたようで、一階へ重い足取りを踏んで降りてきた。「音、うるさい、はよ切れ」とだけ一言言うと、テレビ台の前で充電していたスマホだけ取って、また自室へ向かっていった。その背中に描かれたハイカラな猫のイラストを、私はじっと見つめるしかなかった。姉はフローリングの溝にピッタリと、足をはめた。
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