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 月明りが差し込む夏の夜。  簡素な作りの小屋に咳き込む声が響いた。  咳が酷くなるにつれて、鉄の臭いが強くなる。堪らずに起き上がった。  ――ああ、まただ……  どれだけ心配でも悲しくても、何もできない。こんな手では、彼の姉がしていたように背中をさすってやることさえも叶わない。  だから、いつものように、彼の顔近くに座って小さく鳴いた。  温かい手が頭を撫でてくれるまで。  消えそうな命が、今夜も繋ぎ止められることを祈って。  何度も、何度も、何度も。  咳がようやく静かになった頃、瘦せ細った手がのろのろと頭を撫でた。  ――今日も助かったんだ……  もう大丈夫。いつもと同じように、朝を迎えられる――、そう、信じた。理由も根拠もなく、信じたかった。 「……今まで……、ありがとう……、私は、ここまで……、らしい……」  掠れた弱々しい声が、はっきりと告げた。  いつもみたいに冗談を言っているのだと思った。すぐに笑って打ち消してくれる。そのはずだ、と。  だけど、その言葉はいつまで待っても聞こえてこなかった。  名残惜しそうに離れた手が枕元を探り、小さな巾着袋を引っ張り出した。 「これ……、を……」  骨と皮だけになった手が、巾着袋から白い塊を取り出した。  よく知っている人形だ。  彼が話してくれる京都の思い出話の中でも上位に入るくらい、何度も話してくれた。  優しい眼が「おいで」と笑った。  不安を押し殺して近づくと、彼は首元にそっと触れ、飾り紐にその硬いものを通した。震える手が何度も落としそうになりながら不器用に結ぶのを、我慢して待った。  ようやく結び終え、彼は満足したように頷いた。 「私の……、代わりに……、」  ――持ち主に、返してくれないか?  風に揺れる蝋燭の火のように言葉は震えて、最後は音にならなかった。  それでも、人間よりもよく聞こえる耳は、残さず拾うことができた。  彼の願いを叶えることが、どれだけ困難で危険なことなのかなんて、検討もつかなかった。  ただ、縋るように見上げている彼を喜ばせたくて、人がするように、こくんと頷いた。  安堵したように、彼は目を閉じた。微かに動いた唇が「ありがとう」と紡ぎ、微かに笑った形のまま動かなくなった。  周りの畑から風が草を揺らす音がさわさわと押し寄せて、月を隠した。急に暗くなった小屋の戸がカタンと揺れた。  急に不安になって、布団から出た彼の手に擦り寄って――、その失われてゆく温もりに毛を逆立てて怯えた。  怖くてたまらなくて、痩せた頬に擦り寄っても、冷たい瞼に触れても、彼は起きなかった。  やがて、月が顔を出した時、青白い光の中でやっと悟った。  ――ああ、これはもう骸だ……  抜け出た魂を探すように、障子の隙間から差し込む月を見上げ――、一声、みゃあんと泣いた。  人間達が江戸と呼ぶ地の、忘れ去られた小さな世界から、その夜、一人の青年と黒い影はそれぞれの道へと旅立った。
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