学校復帰

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学校復帰

 マンションのチャイムが鳴って、僕は約束通りだと微笑んで玄関の扉を開けた。 「おはよう。何かごめん。中川君にわざわざ迎えに来て貰うほどの事は無かった気がするけど、正直言って一人で色々手続きとかするのも不安だったから、一緒に付き添ってくれるって言ってくれて有り難かったよ。  でもマンションまで来てくれるのはちょっと過保護なんじゃない?」  そう笑いながら言えば、中川君は相変わらず聖人君主のような微笑みを浮かべて僕のタートルネックに指を伸ばした。  「まぁ、確かに過保護かもね。ただ、うちの研究所で生まれ変わった田中だから思い入れがあるんだよ。可愛いヒヨコちゃんみたいなものさ。…ネックガードはつけてるね。私の選んだネックガード、間違いなかったね。よく似合うよ。」 「でもこれ高かったんじゃないの?ブランドものでしょ?でも着け心地も良いし、すごく気に入ってるんだ。セーターの下に隠してしまうのが勿体無いけど、ベータだった僕がこれ見よがしにネックガードを見せて騒ぎになるのは嫌だしね。」  中川君は微笑みながら僕の黒いタートルネックを指先で引っ張って、ネックガードの(ふち)をゆっくりなぞった。…何だかゾワリとする。  相変わらず中川君に甘えてばかりの僕は、日常生活を送れるようになってホッとしていた。とは言えここまで来るのにかなりしんどかったので、もう二度とごめんだと思っている。 「…私は田中の後天性オメガの移行期を間近で見ていたから、今の明るい笑顔が見られてホッとしたよ。随分しんどそうだったからね。病気ではないとはいえ、オメガフェロモンの数値が急変するのはやはり身体に負担だったよね。  抑制剤を適時使う事で多少はコントロール出来る研究データも取れて、協力してくれた田中には感謝しかないよ。そのネックガードはお礼の様なものだから遠慮は要らないよ。」  あんなに研究所で至れり尽くせりだったのに、そんな風に言ってくれる中川君は本当にスマートだと思う。僕は体調が戻ったせいで何処か浮かれた調子で言った。 「でもお礼はしないとね?何が良いか考えておいてね。」 「そう?じっくり考えさせて貰おうかな。…田中にしか出来ないこととかにしようか。」  僕にしか出来ないこと?中川君は何でも僕より出来るから、何も思いつかない。 「そんな事あるかな。まぁいいや、思いついたら言ってね。」  機嫌の良い中川君と一緒に大学へ歩いて行くと、同じ学部のクラスメイトが僕の肩を掴んで声を掛けて来た。 「田中!おい、お前死亡説流れてたぞ?勤勉な奴が三週間も大学来ないと、そんな噂も立つのはしょうがないぜ。まぁ元気そうで良かった。でも病み上がりなのか?何か痩せたか?」  口の悪いクラスメイトにそう声を掛けられて、僕は中川君に尋ねた。 「僕って痩せこけた?確かに体重は少し減ったけど。」  中川君はクラスメイトを思いの外冷たげに一瞥すると、僕の肩からそいつの手を外させて言った。 「田中は痩せこけたんじゃなくて、垢抜けたんだと思うよ。私達は教務室へ行くからまた後で。」  クラスメイトに素っ気ない態度を取る中川君をチラと見上げて、僕はクスクス笑ってしまった。 「何だい?」 「中川君て結構エコ贔屓が判りやすいね。僕のこと贔屓してる、でしょ?」  すると面白そうな事を聞いたような表情をして、中川君は僕の耳に唇を寄せて囁いた。 「…田中は私のヒヨコちゃんだからね。」  教務室でバース性の変更届と医師の診断書を提出して手続きをしながら、僕は後ろで座って待っている中川君の存在を気にしていた。何だかさっき耳元で囁かれた時に、説明のしづらい何かを感じた気がする。  そのせいで顔が火照って来たんじゃないだろうか。よく考えたら中川君はアルファで、僕はオメガだ。あまり近づくのは良くないのかな。オメガのあるべき振る舞いが分からない。後で病院で貰った注意書きをスマホでチェックしなくちゃ。  「…中川君、もう終わったよ。書類も揃ってたし、オメガ用の緊急避難室とかの場所を教えて貰った。大学にこんな色々配慮があるなんて知らないことばかりだね。アルファにも何か特別な配慮はあるの?」  椅子から立ち上がって僕をじっと見つめてから、中川君は一緒に理工学部の棟へと歩き出しながら口を開いた。 「発情抑制剤の緊急薬を医務室で用意してくれてるくらいかな。私は常習してるから必要ないけどね。でも昨日から数日空ける日程に入ったんだ。だから、田中のオメガフェロモンは前より感じるよ。…良い匂いだ。」  僕は首筋に手をやった。無意識の行動だったけれど、何となくネックガードをしていても首筋に風が吹く様な心許ない感じがする。 「…さっき中川君僕に何かした?アドレナリンが出てドキドキしてる感じがするのって、そのせいじゃない?」  中川君は悪戯が見つかった様な顔をして、何でもない様子で言った。 「ちょっとしたテストをしてみたんだ。田中はオメガ初心者だから、アルファにちょっかいを掛けられる事に対応出来た方が良いだろう?さっきのアレはアルファがオメガを誘惑する時に自分のフェロモンをぶつけるジャブの様なものだよ。  あれに気づいたんだから、田中はちゃんと用心出来るね。…嫌な感じだったかい?」  「ちょっと上気せる感じがして、あと…、首の辺りが怖いというか不安とい…。」  まだ話し終わってなかったのに、中川君は急に僕の肩に手を回し向きを変えて足取りを早めた。 「そんなに嫌じゃなかったみたいだね。怖いと感じるのはオメガの本能みたいなものだよ。でももっと訓練しないと危ない目に遭いそうだ。」  そう言いながらチラッとさっきの方角を見た中川君は、顔を顰めて僕に呟いた。 「田中の先輩がこっちに向かってくる。どうしようか。」  中川君にそう言われて、僕はハッとしてそっちの方を見た。桐生先輩が僕らの方へスタスタと向かって来ている。中川君は少し呆れた様な声で呟いた。 「田中に袖にされてもあの態度は見上げたものだね。と言うかあの人田中に執着してるよね?もし困るんだったら私が追い払ってあげるよ。」 「誰が追い払うだって?お前には関係ない。陽太、話があるってメッセージ送ったろ。今ちょっと良いか?」  苦々しげな口調で先輩は僕らの前に立ち塞がった。チラッと僕の肩に回った中川君の手を見ると眉間の皺を深くした。久しぶりに顔を合わせると言うのにこんなに不機嫌なのも僕のせいだからしょうがない。  それに怖い顔をした先輩でも、久しぶりに顔を見れて居心地の悪さより嬉しい気持ちの方が優ってしまう。  「貴方が田中にストーカーしてるんじゃないかって心配になっただけですよ。…田中、先輩と話したいかい?」  僕は二人のアルファに問い詰められて、交互に彼らを見上げた。何でこうもアルファ達はピリピリしてるんだろう。  僕は小さく頷くと、中川君に頑張って笑い掛けて言った。先輩が僕を見ているから緊張して顔が引き攣りそう。 「…先輩は僕にストーカーなんてしないよ。中川君付き添ってくれてありがとう。先輩から話があるってメッセージ貰ってたから、ちょっと話して行くよ。先に行ってて?」  顔を顰めた中川君が僕に心配そうな目を向けて言った。 「…分かった。先に行くよ。…くれぐれも振る舞いに気をつけて。」  
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