希死念慮の希死田 6

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陽性を示した妊娠検査薬を見て、きらりは呆然と立ち尽くした。 父親は分かっている。 きらりより三つ年下で無職の癖にギャンブル狂いのどうしようもない男だ。 「ご懐妊おめでとうございます」 背後から聞きなれた声が聞こえてきらりは緩慢な動作で振り返った。 「……希死田さん、全然めでたくないですよ」 「何故です?新しい命の誕生は無条件に祝福されるべきですよ」 黒の細身のスーツに身を包んだ死神のような風貌の希死念慮は重力を無視して空中で脚を組み、くるくると回った。 「彼氏さんにはお知らせしないんですか?」 「あたしの彼氏、本当にどうしようもないの知ってるでしょ。言えるわけない」 「あのね、毎回言いますけどね、それなら何でお付き合いしてるんですね?」 「……惰性?慣性の法則?」 「最悪ですね」 妊娠検査薬をゴミ箱に捨てるきらりの背中に向かって希死田は吐き捨てるようにそう言うと、考え込むような様子で腕組みをした。 「……産むんですか?」 希死田が平坦な声でそう尋ねると、きらりは涙声で「わかんない」と呟き、ベッドに横たわると頭から毛布を被った。 「……死にたい」 きらりはまだ専門学校を出たばかりの美容師で親から仕送りをもらっている身で収入も安定せず、産むなんて現実的には考えられなかった。 しかし、それ以上に中絶するのが怖かった。 「怖い。妊娠なんてしたくなかった」 きらりが涙声で呟くと、希死田は「それならセックスなんてしなければよかったのに」と突き放したような声音で言った。 「毎回コンドームも着けずに外だしセックスで避妊したつもりになってて、いつかやるだろうなと思ってましたよ」 「見てたの?!プライバシーの侵害じゃん!!」 きらりが毛布の中から飛び出してヒステリックに叫ぶと、希死田は「別に僕だって見たかないですけど、きらりさんが死にたいって思ってる時、僕はいつも傍にいるんで仕方がないですよね」とぶっきらぼうに言い放った。 彼氏といても、誰といてもきらりは孤独だった。 痛いくらいに乳房を揉みしたがれながら物のように扱われるセックスは苦痛でしかなく、いつも早く終われと念じながらわざと大袈裟に感じているふりをした。 「俺、ゴムがあるとイケねぇからさ」 そして、クズ男のいいなりになった結果がこのザマだ。 きらりの頬から大粒の涙が溢れ、後から後から頬を伝った。 鼻水を啜りながら掌で無茶苦茶に涙を拭いながら「……怖い、怖いよぅ」と呟き、小さな命が宿った腹部を守るように抱え込んだ。 * * * 数日後、きらりは美容室の定休日に近所の産婦人科を訪ねた。 待合室はお腹の大きな妊婦さんが大勢座っていてその誰もが幸せそうできらりは余計に絶望的な気分になった。 「少子化っていいますけど、いる所にはいますよね。妊婦さん」 希死田が感慨深そうにそう呟いたが、きらりは無視した。 診察の結果、きらりの妊娠は心拍は確認できたものの極初期のもので、中絶を考えているのなら早めに決断した方がいいとのことだった。 朝ここを訪れた時はすぐにでも中絶するつもりだったきらりだったが、自らのお腹の中で育っている赤ちゃんの姿を見るとひよってしまい、決断を保留にしたまま産婦人科を出た。 「きらりさん、産む気がないなら早い方が母体へのダメージも少ないですよ」 「うるさいなぁ!どっか行ってよ!」 「無茶言わないでくださいよ。僕は貴方の希死念慮なんですから」 朝からずっと後ろから着いてくる希死田が煩わしくて思わず路上で振り返り怒鳴り散らすと、希死田はおどけたように肩を竦めた。 「せめてご両親に相談したらどうですか?」 「言えない。言えるわけない。専門の高い学費払ってもらってこれからって時に妊娠なんて恥ずかしくて言えない」 きらりがプラチナブロンドのロングヘアをかきあげながらため息混じりにそう言うと、希死田は「そういうものですか……」と少し馬鹿にしたように笑った。 「でもデキちゃったもんはしょうがないでしょう。きらりさん一人で決められないなら誰かに相談するなり判断を委ねるなりしないと、今この瞬間もお腹の赤ちゃんは育ってるんですよ」 「うるさいなぁ!わかってる!」 そう言ってヒステリックに叫んだきらりを通行人たちが怪訝な顔で見て遠巻きに通り過ぎて行く。 希死田はきらりの希死念慮、きらりにしか見えないのだ。 「……希死田さんは、産んだ方がいいと思う?堕ろした方がいいと思う?」 「さぁ?」 希死田が隈が目立つ三白眼できらりをじっと見つめながら肩を竦めると、きらりは「そんな無責任な!」と声を荒らげてから座り込み「……無責任なのは、あたしか」と自嘲気味に呟いた。 「きらりさん、家に帰りましょう」 希死田に手を差しのべられ優しくそう誘われると、きらりはすんっと小さく鼻をすすって「うん」と小さく頷いた。 * * * 家に帰ると、きらりはベッドに倒れ込み泥のように眠った。 そして夢を見た。 三歳くらいの、きらりに目元がよく似た女の子とおままごおとをして遊ぶ夢だ。 「はいママ、ごはんの支度ができました」 「わぁ美味しそう。たべて良い?」 「いただきますしてからね」 「いただきます。パクパクパクパクー。わぁおいしい。莉乃ちゃんお料理が上手ね」 「……ねぇママ」 「うん?」 「莉乃はね、ママのことがずっとずっと大好きだよ」 そこで目が覚めた。 寝起きなのに頭はすっきりしていて涙が後から後から溢れてきて枕を濡らした。 夢の中での娘とのやりとりを反芻していると、玄関で鍵の開く音がした。 合鍵を持っているのは一人しかいない。 きらりの恋人、裕也だ。 ガサガサとビニール袋の音を立てて部屋に入って来た裕也はモッズコートを脱ぎ吸えて床に放ると「今日めっちゃ勝ったから」と言って駄菓子の類が入った紙袋をきらりに渡した。 「何昼寝してたの?てか泣いてる?どした?」 「別れる」 きらりは身体を横たえたまま、はっきりとした口調でそう言うと、腹部を庇いながらゆっくりと身体を起こし、もう一度はっきりと「あんたとは別れる。だからここへはもう来ないで。合鍵も返して」と言うと、裕也は長い前髪の隙間からきらりを睨み付けると「は?何いきなり。意味わかんねーんだけど」とドスの効いた声で凄んだ。 しかし、きらりは全く怯まなった。 「別れる。あんたとはもう終わり。合鍵返して」 「どうしたんだよ急に。俺ら上手くやってきたじゃん」 凄んでも無駄と見るや、裕也が猫なで声できらりの肩を抱こうとすると、きらりは素早くその手を振り払った。 「別れる、って言ってんの」 きらりが腹部を庇いながら裕也を睨めつけながらそう言うと、裕也は途端に真っ青になり「……もしかして妊娠した?」と震え声で問うた。 「あんたには関係ない」 「俺には関係ねぇから!大体、俺の子かどうかもわかんねぇし……」 一部始終を見ていた希死田がぴくりと眉を顰めると、きらりは無言で首を振った。 「じゃあ、別れてやっから連絡とかしてくんなよ!俺、認知とかぜってぇしねぇから!」 裕也が合鍵をダイニングテーブルの上に叩きつけるように置いて逃げるように出て行くと、きらりはのそりとベッドから降り、ため息を吐いた。 「……分かってた。ああいう奴だって」 「施錠、した方がいいですよ」 希死田が合鍵を無感動な表情で見つめながらそう言うと、きらりは「そうだね」と憑き物が落ちたように笑った。 床には裕也の置き土産の駄菓子の入った紙袋が転がっていた。 * * * 「どうですか?身軽になった気分は」 産婦人科の帰り道、希死田にそう問われるときらりは「中絶って意外と簡単なのね。麻酔が切れたら即退院だし」と不器用に笑った。 「別に投げやりになってるわけじゃないよ。軽率なことしたって反省してるし、後悔だって凄くしてる。でも産むことだけが、お腹の子への愛情の示し方じゃないってそう思ったの」 「なるほど」 「しばらくはひとりで頑張ってみようと思うんだ」 きらりが大きく伸びをしながら振り向き様に微笑みながらそう言うと、希死田は「きらりさんが決めたことなら、僕はそれでいいと思います」と口元を歪めて不器用に微笑んだ。 きらりは夢に見た女の子の姿を思い浮かべる。 髪を二つに結わえた笑顔の可愛い愛らしい女の子だった。 今はもういない。 もう二度と会えない。 きらりが自分でそう決めたのだ。 もし、自分がもっと自立していたら、相手がちゃんとした職業に付いていたら、結果は違ったのかも知れない。 「……莉乃に会いたかったなぁ」 きらりが少しうつむき加減にそう呟くと、希死田は「会えませんよ、あの子には」とはっきりとした口調で言った。 「もう、二度と」 駄目押しするようにそう言われ、きらりは驚いたように目を見開いて希死田の顔を見たが、やがて穏やかな顔になり「……そうだね」と呟き、雲ひとつない空を見上げた。 あぁ、今日死ぬのが莉乃じゃなくてあたしだったら良かったのに。 きらりはそんなことを考えながら死ぬには打って付けの青空だと思った。
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