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手を取らなければ、名前を付けられないこんな気持ちに再度、苦しめられなかったと思ったからだ。
記憶は、数日巻き戻る。
昼下がりの音楽学校。
グランドピアノが置かれた練習室。
譜面台の上には、コンクール用の楽譜と少し日焼けしたスケッチブックの切れ端がある。
そこに描かれているのは女だ。誰を描いたものなのかは分からない。
軽いタッチで描かれているが、おいそれと触れてはいけない高貴な雰囲気がにじみ出ていた。
ピアニストには有利だといわれる大きな手で、アンジェロは心臓の辺りを掴む。
胸の奥底に、未知の感情が滾々と湧いていた。
もう一年も前からこんな状態だ。
それは、薄れるどころか日に日に強くなっていた。
薄く開いた防音扉の隙間からは、くすくすと笑い声。
「本当にあれがイタリア一の資産家の息子??着ている服に穴開いてんですけど?」
「笑っちゃうほどの練習狂いでランチも取らないって。コミュ障って噂もある」
内緒話をしているのは、覗き見しに来たギャラリー達だ。
さっきは三人連れでやってきて観察された。今は、二人連れ。
最近、自分の周りは騒がしい。
急に背が伸びたとか、スポーツなどで一躍有名になっただとかでモテ期が到来した訳では無い。
少しクセの入った濃い焦げ茶色の髪は可も不可もなく。
身長は、百八十八センチと大柄だが、自信無さげなどんぐり眼は嫌いな部位。そして、昔殴られたせいで鼻の付け根が少し曲がっている―――ように思える。
右の手首にはいつも古びたサポーター。練習しすぎて腱鞘炎なんですよというアピール。でも、実際は違う。
ピアノの音を邪魔するほどのギャラリー達の声が鬱陶しくてたまらない。
「父さんのせいだ。どう考えても」
一度として美術館に収まったことが無く、世界中の富豪の元を渡り歩く流浪の絵を、父親は手に入れようとしているらしいから。
噂で聞いただけで、どんな絵なのかは知らない。
絵は嫌いだから。
心の底から。
ピアノに没頭する以外は、四六時中憎むほどに。
だから……。
アンジェロはスケッチブックの中の女を眺める。
最近強くなる一方の気持ちにどういう名前を付けていいのか分からない。
女を抱きしめたくなるような甘い思いを。
そして、その感情を裏返せば合わせ鏡のように描き手への圧倒的敗北感がくっついている。
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