第二話

9/9
前へ
/21ページ
次へ
 そして俺は逃げた。その場に彼を置いて、懐古趣味のあの部屋に。  扉を閉めて窓の前に立つと、疲れた顔をした二十七の自分が映っていた。  何してるんだ、おまえは。  俺が凄まじい自己嫌悪に襲われて、その首を垂れた時、後ろから坂巻が俺にぶつかるようにして抱きついてきた。  いつもの匂いが全身に纏わりつき、俺は息を呑んだ。  相手が男でも尽くされていたら段々感覚が麻痺して来るものだ。  彼の気持ちに触れた気がして、俺の中で何かが弾け飛んだ。顔だけ振り返りしな、 「抱きたい」  自分の口からそんな言葉が出て来るとは思わなかった。 「……無理」  俺は口を半開きにして、彼の言葉を聞いた。  ああ、断られた。  俺は弾かれたように、急速に心が覚めて行くのを感じた。変な汗を掻きながらも、危なかった! と心から天に感謝した。やがて波が引くように理性が優ってきた。  そうだとも、過ちは逐一軌道修正していけばいい。  友達ってそういうもんだろ。  合点した俺は坂巻の手を俺から外そうとした。  窓に映る坂巻を見ようとした。しかし、俺の肩が邪魔で表情が見えなかった。 「おい……」 「何?」  ……無理と言うなら何でこの状態なのか。  俺の尻に当てられた彼の股間が硬かった。それで彼が欲情しているのがわかった。彼は俺の胸の前でがっちり手を組んでいて、離すつもりはないと、その強い力には強い意思を感じた。  自我を取り戻してからのこの状態は、地味に辛い。 「準備してないから、今日は無理」 と坂巻が俺の背中に向かってくぐもった声で言った。  追い討ち。今日でなければ、良いと言っている? 「そうか」と俺は納得したふりをするが、ここ最近で一番の混乱状態に陥っていた。  何の準備だ?  言葉を選んで、俺は必死に言葉を繋げた。 「おまえ、まだ髪が濡れてるぞ」 「うん」  坂巻と俺の間には多分根本的な誤解がある。  そうだ。多分そう。 「離してくれ。少し冷静になった……」  そして、俺は振り返ってしまったんだ。  直ぐ近くに彼の美しい顔があって、  吸い込まれるような真っ直ぐ俺を見つめる綺麗な瞳があって、  形の良い、荒れのひとつもない唇があったので、 「準備なんか要らないだろ」と俺は彼の腕を掴んだ。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加