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春を集めて
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ハルは偏屈な女子だなって思う。
僕は図書室とかでいっぱい本を読んでて国語の成績もよくていっぱい言葉を知っている。それでクラスメイトとかを一言で表すゲームとかを算数の時間とかにやっていて、たとえば前の席のジンくんは「意地っ張り」で後ろの席のカケルは「明るい」で、僕は自画自賛じゃないけど「優しい」で、じゃあ幼馴染みのハルはなにかっていうと「偏屈」だと僕は思う。
でも、っていう風に思っちゃう僕の方こそ偏屈なのかもしれないなって、内省ができちゃうところが僕の賢いところで、正直ドッジボールとかドロケイとかするよりは本を読んでた方がいいよなって、僕は思うんだけどべつに誰かになにかを言うわけじゃないし、ハルも好きにドッジボールしててもいいよ。男子にまざって遊んでなよ。そっちの方が好きなんでしょ? ハルは。
胸がもやもやするときがあって僕はたまに困る。
僕と遊ぶよりもそっちの方が楽しいならそっちで遊んでればいいじゃん、って僕は思うからなにも言わないしなにも気にしないふりをして本を読んで言葉を覚えて賢くなって、窓の外からドッジボールで遊んでいるハルを見下ろす。
気になっちゃう。目で追っちゃう。いまなにをしているのか、心が騒ぐ。べつになにしててもいいって思うのに。べつになにしてても僕は関係ないじゃんって思うのに。ただの幼馴染みなんだから。
ほんとうは嫌だ。
ほんとうは嫌だ。
でも分からないんだ。なにかよく分からないもやもやは病気みたいに目には見えなくて、僕には分からないんだ。言えないんだ。言っちゃだめだと思うんだ。僕は。だから。
1
りっくん知ってる? 海って冬は震えるんだよ。寒くて震えるの。だからほら見てあの白い波。ざざーんってきて、すーって逃げていくでしょ? あの白いのが震えて砕けてるの。寒ーいって叫んでるんだよ。すごいでしょ?
へへーんってなんか得意げになって歯を見せるハルの笑顔っていうのは去年の冬に見たもので、今年の冬もハルの言う通りに寒そうな白波が押し寄せては砕けて引いていって、あれ、でも別に夏でも同じように震えて砕けてない? って僕は思うけど言わない。言わない賢さっていうのを僕は持っている。
何回も何回も何回も何回も白波は寒さに震えて砕けて還る。
似ているようで違う。その繰り返しをぼんやり見ながら僕は退屈さに耐えきれずに欠伸をして、白い息がぽわ~って出て、それは今日の曇り空にも似ていて、ていうかなんで僕がいま待たされないといけないんだ? ハルってほんとうにわがままだし、わがままな癖して良い子ぶってるし、ムカつくなって、砂を蹴りながらハルを見る。
ハルはしゃがんで背中を丸めて一心不乱に砂浜を漁っている。
「ハル」
って声を掛けてもハルは無反応で、それは波に僕の声が消されているからってわけじゃなくて単純に聞こえないふりだ。ムカつく。ハルっていつもこうだ。自分に構ってほしいときは平気で僕を呼ぶのに、僕が呼んでも都合が悪いと無視するんだ。
「ハル!」
「……なに?」
振り返るハルの顔は不機嫌っていうよりちょっと困ったような感じで、それが尚更に僕をいらつかせるっていうか、なんか僕が悪いみたいな空気が僕は気にくわない。
付き合わされてるのは僕の方じゃん?
僕は上着のポケットに手を突っ込んだまま近づく。寒さには慣れているのに風には慣れていなくて僕は顔の表面が強ばるのを感じる。そしてハルに近づいたはいいものの僕はなんて声を掛けるべきか分からない。
ハルは怪訝っていう言葉がすごい適切な表情で僕を見て面倒くさそうな感じ。
「なにって。なに?」
「……もう帰ろうよ」
「むり」
「むりってなんで」
「むりだから。ひとりで帰ってていーよ」
「はあ? なんそれ」
「まだむりだから」
それだけ言ってハルはまた僕に背を向けて砂浜を漁りはじめて……はあなんなんこいつマジでムカつくんやけどなにこれって思って僕は本気で帰ろうとするんだけどその前に気がつく。ハルがなにをしているのか。
ハルは貝を集めている。
あーでたでたハルの偏屈なところだ貝なんて集めちゃってさー。僕はため息をつきながらハルの傍に置いてあるレジ袋を見る。コンビニのレジ袋。底の方がうっすらと膨らんでいて貝が入っているのが分かって僕はまた深く息を出す。
「いつ終わんのそれー」
「……」
「無視すんなし」
「……うっさい」
「はあ?」
「りっくんうっさい」
「なんそれ、マジで」
「うっさい。古林くんと来ればよかった」
って一言が僕の頭を白に染めた。
はあああああっ。なにそれ? なにそれ? なんでそれを言うん? なんでいま言うん? じゃあ普通に古林くんと来ればいいじゃん。なに? なんなん? って思って僕はマジで普通にムカついて、でもだからといってハルになにを言うでもないしなにか傷つけたいわけでもないし、でもハルに失望して落ち込むばかりでもなくて、じゃあどうするのかって、僕の身体は衝動的に動いていてレジ袋を掴んでいる。引っ張っている。持ち上げている。勢いよく。
袋の中で致命的な音がした。
「なにしてんのッ!」
ハルの怒号は白波を怯えさせて震えさせて砕けさせる。
袋の中で貝が割れていた。砕けていた。え。なにこれ砕けた貝でも集めてんのかよ。なんかマニキュアされた爪みたいなピンク色の破片。って思うけど違う。僕が持ち上げて割ったんだ。
「返してよっ! それ割れやすいんだから!」
ハルがまた強引に僕の手から袋を奪ってさらに袋の中では致命的な音がする。もう絶対にめっちゃ貝が割れている音。
白に染まっていた頭が一気に冷静になって、なんか僕悪いことしちゃったんじゃないか? って喉元からすーっと血の気が引いて僕は寒さを自覚する。寒い。身体はやけに熱いのに、首から上が、寒い。
「ああああああああぁぁ」
って袋を覗いたハルの声っていうのはまさに絶望っていう言葉がぴたりと当てはまるくらいに感情が落ち込んでいて、ああやっぱり僕……でも、でも酷いことを最初に言ってきたのはハルだしなんで僕ひとりだけ悪いみたいな、いや悪いのは僕なの分かってるけどでも、でも、でも……。
ハルの目が赤く充血して涙が膨らんで玉となって頬に落ちる。顔をぐしゃって紙風船が潰れるみたいに歪ませてハルはそして「ひっ、ぐ。う。ふっ、ぐ。うぅふぐっ。うぅううううううっ」って泣く。声を上げて泣く。
レジ袋が砂に落ちる。また割れる音。僕はなんか「あ、ああー」みたいな言葉にならない声を上げてレジ袋を拾って、さらに粉々になっているピンク色の貝だったものを見て、ああもうこれなんかダメなんだなって認識する。
ダメだ。
途方もないくらいに、果てしなく、ダメだ。
ダメ。
ハルは泣き続ける。でも僕はなにもしてあげられない。なにも……。僕は自分を「優しい」だと思ってた。でも本当に優しいのかな。優しさってなんなのかな。僕ってなんなのかな。僕はどうすればいいんだろう。僕は。
そしてハルはもう僕にはなにも言わずに背を向けて砂浜を歩いて帰っていく。泣きながら帰っていく。僕はその背中にやっぱりなにもしてあげられない。だってなにかをする権利なんて僕にはないように思えるから。でも権利なんて……権利なんて考え方は的外れじゃないの?
僕はもうなにがなんだか分からなくて、分からないまま僕も帰ろうとして、レジ袋が目に入って、それだけは、なんだか持って帰らなくちゃいけないような気がして、ああ、風が、すごく冷たくて悲しい。
2
ハルの家も僕の家も海岸沿いにあって海から十分くらいの距離にある。
でも僕はすぐに帰らなくて、っていうか帰れるような気分じゃなくて、なんかずっと歩いていたいような気分になって、住宅地をさまよった後に無駄に山の上の神社まで歩いてみたりして、冬なのに汗だくになって帰宅する。
日は暮れていた。
僕の家は二世帯住宅でお爺ちゃんとお婆ちゃんが一緒に住んでるけどお爺ちゃんはもうほとんど寝たきりになってて顔を合わせることはほとんどない。同じ家に住んでるのに不思議だ。でももう不思議を不思議と思わないくらいには日常と化していて、そして僕が家に帰ると玄関でたまたま婆ちゃんと出くわす。
白髪が増えて腰が曲がって顔もくしゃくしゃになってて本当にお婆ちゃんって感じのお婆ちゃん、みよ婆ちゃんは言う。
「なに持ち帰ったと。潮臭いのぉ」
「ん。貝」
「おめぇ貝なんざ持ち帰ってどうするとや」
「いやなんか。変な貝だなって」
「見せてみぃよ」
「ん」
僕は素直にレジ袋を渡して靴を脱いで、っていうところでお婆ちゃんが顔をしかめて言う。
「おめぇこれ桜貝か?」
「知らん」
「知らんてなんよ。桜貝だっぺこれ」
「桜貝てなに」
「幸せを呼ぶ貝だぁ」
みよ婆の濁った瞳が僕を捉えて真剣になる。
「おめぇこれどこで拾ったんや。おめぇ集めたんじゃないやろ」
「……ハルが集めてた」
「ハルちゃんが? あぁ。おっかさん手術だもんなぁ。それでなぁ」
おっかさん手術、って言葉がお母さん手術に繋がるまでに時間が掛かって、でもすぐに僕は気がついて「え?」と聞き直す。
「なにそれ。どゆこと?」
「なんやおめぇ知らんのか。ハルちゃんとこのおっかさん手術だどわ。明日じゃねぇのか。心臓悪ぅしてんのやって」
は? なにそれ。
あまりにも唐突すぎて全然理解が及ばなくて僕はなにも言えなくなって、また無意味な問答を繰り返しそうになって、でもやっぱりちゃんと理解しているし僕は理解する。
理解する。
理解する。
「んでもぜんぶ割れちまってんのかや。んなら」
って婆ちゃんが言っている途中に僕は袋をひったくるように奪ってもう家を出ている。寒い。風が冷たい。家に入って緩くなりつつあった顔の表面がまた凍っていく。でもそんなことはどうでもよかった。本当にどうでもよかった。
僕はなにをやっているんだろう。
海に向かおうとするけれど闇は深い。住宅地を外れると街灯もないから真っ暗闇で胸の奥が縮んでいく。――怖い。ああ怖い。怖がっている。そりゃそうだ。夜は怖い。夜の海は怖い。僕の歩幅はどんどん短くなっていく。僕の歩調はどんどん遅くなっていく。
僕は立ち止まる。
っていうか僕ももちろん悪いところはあるし貝を割っちゃったのは本当に悪いなって思うんだけど本当に僕だけが悪いのか? ハルだって悪いじゃんかなにも教えてくれないしそれでひとりで黙々と貝集めなんてして、しかも僕を都合の良い奴みたいに扱って、あまつさえ「古林くんと来ればよかった」とかって言いやがってさ、それだって酷いじゃないか。
なんで僕だけ悪者になって夜の海なんていう恐怖の大王みたいな場所に行かなくちゃいけないんだよ。なんで?
考えているとなぜか無性に泣きたくなって僕は普通に泣く。意味分かんない感情に流されるみたいにして泣く。なんで? なんで? なんで? 本を読むばかりじゃ分からない「なんで?」っていう疑問が解消されることなく洪水みたいに溢れ出して僕は泣いて鼻を啜って、前に、歩く。
なんでもクソもなくて、僕はハルが好きなんだ。
ハルが好きだからハルの言動とか行動とかにすぐ影響されて感情を乱されちゃうんだ。僕は分かってるんだ。べつにハルに悪気なんてないんだ。ハルは別に僕のことが好きじゃないだけなんだ。ただ仲の良い幼馴染みの友達っていう感覚なんだ。そうだ。
だから僕は一方的に傷つくけど、でも、それは仕方のない痛みなんだ。
涙はまだ流れる。でも僕の足はちゃんと自分のペースを取り戻して進んでいる。
夜の砂浜はやっぱり怖くて刺々しくて僕に警鐘を鳴らしているようにも思える。波の音もやけに高く響いていておどろおどろしい。帰った方がいいんじゃないの? って僕は思うけど、でも、月明かりに照らされる。
曇っていたはずの夜空はいつの間にか雲が割れて満月が露わになっている。
月明かりの銀光は砂浜に埋もれる貝殻を綺麗に映し出してくれる。
僕はもう怖くない。……嘘だ。本当は怖い。でも僕は勇気を出さなくちゃいけないとも思う。結局のところ僕は「臆病」だから。……僕は自分のことを「優しい」だと思っていたけどほんとうは違うんだって気がつく。
僕は自分の気持ちを伝えられなかったし自分が傷ついていることをうまく伝えられなかったし、ハルに嫌われることを恐れて都合の良い……そうだ。僕なんだ。都合の良い存在になっていたのは僕なんだ。
ハルがそう扱ったわけじゃなくて、僕が、自分から、都合の良い存在みたいになっていたんだ。
そのくせハルにごめんも言えなかったし、ああ、臆病だ。
僕は「優しい」んじゃない。「臆病」なんだ。
だから――勇気が。
勇気が必要なんだ。
僕は勇気を持たないといけないんだ。
そうじゃないと僕は……僕は本当の優しさを手に入れられないんだ。
だから僕は夜の砂浜で貝殻を集める。
ピンク色の貝殻を集める。
桜色の貝殻を集める。
桜貝を集める。
3
桜貝は脆くて薄くて僕はトンボの羽根にも似ているんだなって思う。
必死に集めるけれど綺麗な桜貝は見つからない。
そもそも砂浜に打ち上げられた段階で桜貝は割れている。
あるいは砕けている。
これは無駄な行為なんじゃないかなって予感が頭を掠める。
どれだけ探したところで綺麗な桜貝なんて見つからないんじゃないか。
この砂浜には綺麗な桜貝なんて一つも打ち上がらないんじゃないか。
綺麗なの見つけたなって思っていても穴が空いている。
遠目からキラキラしているなって思って近寄るとひび割れている。
月明かりに照らされてさすがにこれならって思うけど欠けている。
僕のする行為やこれからの行動はすべて徒労に終わるんじゃないのか。
嫌な予感がずっと頭にこびりついている。
そろそろお母さんとか心配して迎えに来るかもしれないなって。
きっとみよ婆には居場所がバレているだろうから。
でも僕は探す。
探す行為を諦めない。
見栄えの良い桜貝を集めては袋に入れていく。
何個も何個も入れていく。
同時に僕は祈ってもいる。
なにかを祈っている。
それはハルのお母さんのことかもしれない。
あるいはハルのことかもしれない。
ハルと僕との関係性のことかもしれない。
僕は祈りながら桜貝を袋に入れていく。
やがてお母さんが心配になって迎えにくるそのときまで。
4
翌日の朝に渡そうと思ったけれどハルのお母さんの手術がいつになるか分からないし、もしかするとハルは早朝とかのすごく早い時間に家を出るかもしれなくて、っていうことを夜遅くに気がついた僕はこっそり家を抜け出してハルの家の玄関の前にやさしく袋を置いた。
桜貝の詰まった、袋を。
5
寝て起きてダラダラしてテレビを見て外に出て図書館に行って本を読んで帰途について夕方、ハルの家の電気はまだ点いていない。だからああ手術ってまだ掛かってるのかなハル大丈夫かなハルのお母さん無事だといいなって思いながら家に帰ってお風呂に入ってまたダラダラして、家のピンポンが鳴った。
宅急便とかかなって僕は思って自分の部屋でゲームをしていると部屋のドアが開いてお母さんが言う。
「あんた、ハルちゃん来たよ。用あるって」
「え」
どくんっ、とあからさまに僕の心臓は飛び跳ねて……これってどっちの高鳴りなんだ? 普通に緊張している。やばい。どっちだ。好きって自覚しちゃったから、怖いのか。それともいろいろあったことに対しての緊張なのか。ああ分かんない!
ってなりながらも僕は玄関を出てハルと会う。
「おっす」
とハルはまるで昨日のことがなかったかのように言う。
だから僕はなんだかそれに釣られるようにして「おっす」と言う。でもでもでも、僕はちゃんと勇気を出して言わなくちゃいけなくて、息切れするみたいになりながら言う。
「ごめん、昨日……ごめんなさい。桜貝」
言いながらに泣きそうになっちゃうのはどうしてなんだろう?
でもハルはまるで気にすることもなく、にへっと笑う。白い歯を見せていつものようにリラックスしたような感じで笑う。首元の赤いマフラーが風にさらわれてほどけて靡いた。
僕の好きなハルの笑顔だった。
「りっくん、これ、ありがと。あと……わたしこそごめんね?」
そのときハルはなんだか大人びて見えた。憑きものが落ちたような感じだった。だから僕はわざわざ訊かずとも分かった。
手術はきっとうまくいったんだ。
「いや……うん。大丈夫。……これなに?」
「桜貝」
そしてハルがやさしく手を開いて見せてくれるのは綺麗な桜貝だった。その桜貝は上下で綺麗に切り離されていた。だからまるで本当の桜みたいに思えた。
その片方を、ハルは僕に手渡してくれる。
僕はやわらかく手の平に持った。割れてしまわないように。欠けてしまわないように。
「りっくん、これちゃんと大切に持っててね」
「え? うん。もちろん。保管するよ」
「絶対だよ? 大切にだよ?」
っていうハルのほっぺたが桜貝みたいにピンクになっているのはたぶん寒さのせいで、僕はよく分からないけど、とにかく大切にしようと決める。
「割っちゃだめだからね。わたしも、ちゃんと保管するから」
「うん」
「じゃあまた明後日、学校でね、りっくん」
「うん。またね」
「じゃーね」
「ばいばい」
やりとりはそれだけで終わる。だから僕は拍子抜けする。でも心にあるのは妙な安堵感だった。僕は安心している。ハルとのいつものやりとりに落ち着いている。
そして家に戻るとみよ婆が廊下に立っていて、僕に言う。
「おめぇも隅に置けんのぉ」
……なにがじゃい!
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