感謝のファンレター

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感謝のファンレター

 推理小説作家の私の元に、送り主の情報が一切書いていない、一通のファンレターが届いた。それを怪しんだ担当編集者は、この手紙を破棄するか宛先である私に確認してきた。しかし、私は読者から刺激をもらうため、ファンレターには全て目を通している。送り主が不明であっても扱いは同じ事。私は担当編集者が帰った後、一人送り主不明のファンレターを読み始めた。それはパソコンでタイピングして書かれた手紙で、温もりには欠けるが、ある意味読みやすさを覚えるものだった。私は一文字一文字、脳髄に刻みつけるように手紙を読み進めていく。 「先生へ  まずは、私の素性を一切明かさずこの手紙をお送りしていることをお詫び致します。しかし、推理小説を執筆していらっしゃる先生であれば、この状況すら楽しんでくださるのではないでしょうか。  この度ファンレターを書きましたのは、先生に感謝をお伝えしたかったからです。先生が執筆された『大いなる密室』、拝読いたしました。きっかけは友人の薦めというありがちなものでありましたが、あの本は私の人生を変える、運命の一冊となりました。  ある探偵が密室殺人を追うという本筋は平凡なものでしたが、そこはさしたる問題ではありません。私が感銘を受けましたのは、その密室トリックです。探偵が容疑者たちの前で推理を披露するまで、愚鈍な私には全くそのカラクリが分かりませんでした。そして探偵の手によりトリックが白日の下にさらされ、終盤まで一気に駆け抜けていくその鮮やかな筆力。これが小説家という存在か、と思い知らされたものでございます。  加えて私が共感を覚えましたのは、犯人の境遇でした。一見平穏に見えた犯人と被害者の関係が、実際は凄惨で陰湿で陰鬱であったこと。これが私の心を大層揺さぶりました。どちらが真の被害者であり、どちらが真の加害者であるのか、心と頭で考えたものです。そして、私は結論づけました。『大いなる密室』における被害者は、殺人犯であると。これは私自身の境遇を含めた結論になります。  さて、話は密室トリックの件に戻ります。『大いなる密室』に深い感銘を受け、何度も読み返す内に私はあることに気づきました。先生は、意図的に犯人の計画に穴を作られたのだと。犯人の密室殺人計画の一部をアレンジすると、完全犯罪が成立する。それを本として出版されなかったのは、何か事情がおありになるのでしょう。しかし、私はこの気づきを天啓と考えました。  先生がこの手紙を読まれている頃には、一つの密室殺人が完全犯罪として迷宮入りしていることでしょう。『大いなる密室』の犯人は、探偵の推理によりその輝かしい人生を檻の中で過ごすことになりましたが、私は先生のおかげで清々しい青空の下、これからの人生を生きていくことができます。  最後に、心からの感謝を記して、このファンレターを締めくくらせていただきます。私の人生を変えてくださり、本当にありがとうございました。                     とある密室殺人事件の犯人より」    ファンレターを読み終わった私は震えた。殺人犯をこの世に誕生させてしまった罪悪感による震えではない。私の推理作家としての頭脳が、一読者に出し抜かれてしまったことが我慢ならなかったのだ。  『大いなる密室』のトリックの穴が分からず、私は原稿からプロットまで、関係するものを全て、一文字一文字舐めるように読み直した。それでもこの脳髄は、トリックの穴を見つけることができない。私の推理小説家としての自尊心がぐらりと揺れ、みしっと音を立てる。  そこで私は気づいた。ファンレターの差出人にはあって、私にはないもの。それは当事者意識だ。他の誰でもない、自分自身が殺人を犯すという自覚だ。  ちょうどそのとき、担当編集者からの着信が鳴る。また原稿の催促だろうか。うっとうしい。  私はある決意を胸に、どこにでもいる人間を装って着信に応えた。 感謝のファンレター 完
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