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6・ココロ④
まさか真冬のプールに誘われるとは思ってもみなかった。
先生の家から歩いて10分ほどの場所にある室内の市民プール。新品だからと言って貸してもらった水泳パンツを履いて、俺はひとしきり好きに泳いだ。先生は隣のレーンでずっとクロールの往復を続けている。
冬の平日の市民プールも少しは需要があるらしくて、一番窓側のレーンには歩いているお年寄りが二人。反対側の端っこのレーンには、髪を黄色く染めた男とビキニの女の子がきゃっきゃ言いながら戯れている。
俺は泳ぎながら先生について考えた。
おかしな人だと思う。
俺はシフトで働いているから仕事を休める曜日はまちまちだった。俺は毎月、先生の所を訪ねられる日を告げるのだけれど、どの曜日のどの時間を告げても「わかりました」と一言、そのままをカレンダーに書き込んだ。そこに書き込まれた他の予定はなかった。先生はいつも家に居るようだった。
先生は普段何をしているのだろう。
在宅勤務なのだろうか、と思ったこともあったけれど、仕事をしている形跡はまったくない。パソコンの扱いなどは俺の方が詳しいぐらいだ。
そして、月謝は相変わらず取らない。
この人は一体、何者なのだろう。
俺は一休みしようとプールを出ると、プールサイドに設置された「採暖室」というサウナのような部屋に入った。中はほどよく暖かい。
曇ったガラス窓からは、さっきの男女が目の前に見える。今、黄色い髪の男がビキニの女の子を持ち上げて水に投げている所だった。女の子は悲鳴を上げながら喜んでいる。こんな所でよくやるなあ。
そこに先生が、二人を眺めながら採暖室のドアを開けて入って来た。
「賑やかなお二人ですね」
「はは。仲がいいのはいい事です」
俺はいつか聞いてみたかった事を先生に質問した。
「先生。いつも気になっていたんですが」
「はい。何でしょう」
「先生は普段、何をされてるんですか?お仕事は?」
「あ。ああ。不思議に思いますよね。別に隠してるわけじゃないんですが」
「いつもおうちにいらっしゃる」
「はい。あのね、私、何もしてないんですよ。家からもあまり出ない」
やっぱりそうか。でも、普通働かなきゃ、食っていけないもんじゃないだろうか。少なくとも俺の常識ではそうだ。これじゃ、所謂ニートだ。でも、先生は所帯持ちだ。
「親が亡くなって遺産を残してくれましてね、主に証券ですが。その利息で生活してます。もっとも、遺産は実は大部分を叔父に騙されて持ってかれてしまいましてね。人を信じられなくなって、籠るようになったのはそれからです」
ちょっと待て。なんじゃそりゃ。
騙されて持ってかれてなおかつ残された遺産が、利息で食えるだけの証券。それで人が信じられなくなって籠ってって、その、なんつうか、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」みたいな立場の違いっつうか、なんつうか。糊口をしのぐために、地べたを這いつくばるみたいに働き、毎日へとへとになってアパートに帰る俺って一体。
俺はもう一つ、聞かずにはおれなくなった。
「あの。先生は、今までどんなお仕事をされてたんですか?」
「今までも何も、仕事はしたことがありません」
俺は一瞬、嫉妬と怒りで目の前が真っ暗になった。
返す言葉がなくなり呆然としている俺に先生が向き直った。
「それより梶さん」
「はい」
「あのカップルを見て小馬鹿にする気持ちになったでしょう、さっき」
「え?」
採暖室の窓の外の二人はなおも今、浮き輪をはさんでじゃれ合っている。
「無理もないです。平日の市民プールであれはない」
「いや。小馬鹿になんて」
「梶さんは恋をしたことがありますか?」
あ?
気持ち悪いことを聞く人だなあ。
「いや。この歳ですから人並みには」
「恋をするとすべてを忘れる。その世界に魅了される」
「・・・はい」
「でも、梶さん」
「はい」
「恋は罪悪ですよ。わかっていますか?」
・・・
・・・
は?
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