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6・ココロ②
<小説教室始めました>
10月なのに夏日のある日、仕事の途中に、俺は気になる貼り紙をとある住宅のドアに見つけたのだった。なんの装飾もなく、黒マジックで書かれている。一瞬、近所からの何かの苦情の貼り紙に見えなくもない。
<どなたでも歓迎 向井>
へえ。
俺は南多摩のこの土地で郵便配達の仕事をしている。
高校を出て地元の企業に就職したものの合わずにすぐ辞めた俺は、上京して郵便局のアルバイトを始めた。2年後には本職員に採用されもう10年になる。この地域は俺にとって庭だった。
俺がこの貼り紙を目の前でまじまじと眺める環境にあったのは、この家の人と対面する必要があるからだった。書留を渡してハンコをもらわないといけない。俺はドアの横のインタフォンを押した。
住人の向井さんは2年ぐらい前にここに越してきた若いご夫婦だ。
向井さんが入る前は住宅兼デザイン事務所だった赤いおしゃれな戸建ては、パーティーでもできそうなやたら大きなベランダが特徴の、デザイナーズハウスらしい。車は持っていないらしく、本来駐車場のはずの場所には幾鉢かの観葉植物が並んでいる。
ほどなくしてドアを開けてくれたのは、ここの奥さんだった。
きれいな人だ。きれいな声だ。
「はい」
「書留です。ええと、向井静さんに」
「はい。あ。しず、です」
「え?」
「しずか、じゃなくて、しず。普通読めませんよね」
「すいません。むかいしずさん」
「はい。ハンコですよね」
「あ。はい」
白いブラウスにデニムのボックススカート。うっすらお化粧。こんな住宅に住む人は、家の中でもきれいにしてるんだな。俺は靴箱の上の戸棚からハンコを探す奥さんの横顔を、見るともなく眺めた。小さな顔に、切りそろえられた前髪。サラサラな長い髪。反り気味の睫毛が美しい。じっとモノを見る目元に特徴がある。
「どうした?しず」
その時、家の奥から男にしては高めの、でも落ち着いた声が聞こえるや、部屋のドアが開いた。
長身のその男は、灰色のカーディガンにカーキ色のチノパン。
細面の長髪にちょび髭。年齢は俺よりちょっと上ぐらいか。
彼は俺に気付くや、ちょこんと頭を下げた。
「郵便屋さん。外は大変。暑いでしょ」
「いや。真夏に比べたら全然」
先生と俺は、その時初めて言葉を交わしたのだった。
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