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6・ココロ③
郵便局員にとって年末年始は繁忙期だけれど、年が明け10日もすぎると、逆に小閑が訪れる。そんな非番日の午後、俺は年が代わって初めて先生の所を訪ねたのだった。このあたりはいつもは制服の俺がバイクに乗って配達している場所。そこを私服で、よそよそしく歩いていく違和感が新鮮だ。
先生のお宅に近づくと、家の塀の前に黒いダウンを羽織った後ろ姿がうずくまっていた。デニムのボックススカートの作る丸いお尻の曲線が美しい。
これは奥さんだ。俺は後ろから声をかけた。
「明けましておめでとうございます」
奥さんは驚いたようにこっちを見上げた。
「あ。梶さん」
「おめでとうございます」
「明けましておめでとうございます。今年もよろしく」
「何してるんですか?ここで」
「あ。うん。たんぽぽがね」
俺は奥さんの横にしゃがんだ。
たしかにたんぽぽが、ブロックとブロックの隙間から生えている。ロゼッタ状の葉を広げた先っぽに小さく咲いた黄色い一輪。こんな季節でも、たんぽぽって咲くんだな。
「昨日はなかった」
「見逃してただけじゃ」
「なかったと、思うのよね」
「突然は咲かない」
「そうだよね。こっちが急に気付いただけか」
「はい。多分」
「突然は咲かない」
奥さんはこっちを向いた。小さいけれどまん丸い目が、ちょっと上目遣いに俺の顔を見ている。この思い詰めたような目が奥さんの表情の特徴だった。
奥さんは突然破顔すると立ち上がった。
「主人が待ってますよ。中へどうぞ。楽しみにしてる」
去年の10月、書留を渡すついでに<小説教室始めました>の話題を出した俺に、食いついてきたのは先生だった。
「興味ありますか?どうぞ、今からでも。どうぞどうぞ」
当然、俺は仕事中だった。そんな暇はない。
趣味の少ない俺だけれど、本だけは子供のころからよく読んでいた。そんな俺に突然刺さった言葉が<小説教室>だったのだ。勿論俺はそれまで創作なんてしたこともなかった。断る理由が見つからず、俺はその翌日から月二回、先生のお宅に通うことになったのだった。
二階のベランダに面した書斎で俺はいつも先生と並んで座った。
壁掛けのカレンダーの予定はほぼ何も入っておらず、俺がここに来る日と時間だけが書き込まれている。もう生徒を取るつもりもないのか、ドアの貼り紙もいつの間にやらはがされてしまった。
「梶さん。これ、面白いです。楽しく読みました」
「あ。ありがとうございます」
先生の授業は簡単だった。次にここを訪れるまでの間に小説を一本書く。お題も長さも決まりはない。先生は月二回、持ってこられた小説を読んでそれにコメントする。でも、批判されたことも、赤を入れられたこともない。大体が内容を誉めてくれて、その上で自分ならこうするかも、と一言二言付け加えるだけだった。あと誤字の指摘ぐらい。
「先生。これだけは困るんですが」
「またその話ですか」
「月謝は払わせてください」
「見ての通り、そこまでの事はしていません」
「いやいやいや」
こんな風に先生は月謝を取らなかった。そして、授業を終えた後の長い時間を先生と俺はおしゃべりに費やした。
「それはそうと、梶さん」
「はい」
「プール、行きませんか?プール。泳ぎたくなってきた」
は?
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