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6・ココロ⑥
奥さんが用意してくれた食事は、漬け置いてあった豚の生姜焼きとサラダ、茶わん蒸し、大根の味噌汁。それからデザートに手作りのアイスクリーム。
手料理なんて実家に戻った時じゃないと食べられない俺には、勿体ない。ましてや作ってくれたのが、こんな素敵な女性だとしたらこの時間はまさしく珠玉。まるで夫婦みたいだ。俺は生涯感じたことのないような恍惚に身を任せながら食事を摂り、今、食後のコーヒーを飲んでいる所だった。
俺は先生に直接聞きそびれていたことを奥さんに聞いた。
「あの。先生の書いた小説はどこで読めるんでしょう」
「あ。ああ」
「できれば読んでみたい、と思ってるんですが」
「主人は小説教えてるんですもんね。書いてると思いますよね」
「ええ」
「創作には興味ないみたいですよ」
そうなんだ。
「評論みたいなことばかりしてました、以前は」
「以前は、って。今は?」
「今は何も。梶さんに教えてるのが唯一の」
「勿体ない」
「勿体ないってことないんですよ。創作は私も何度か勧めたんですけどね」
その時、奥さんのスマホに着信があった。先生かららしい。
外はもうとっぷり暮れている。そろそろお暇しないとな。
「主人帰ってくるの遅れるって。まだ上野」
「そう、ですか。あの、自分、そろそろ」
「おうちに御用あるんですか?」
「いや、特に。一杯やって帰ろうかなって」
「そんならここで飲めばいい。ありますよ、お酒。私も飲みたい」
俺の返事を待たずに奥さんは椅子を立つと、冷蔵庫を覗いた。
「ビールとチューハイがあるけど」
「あ、じゃ、チューハイで」
「じゃ、私も同じの」
再び椅子に座った奥さんは、じっとチューハイの缶を見ている。
「久々です」
「あまり飲まないんですか?」
「ええ。飲んだって、どうせ、相手は主人」
へ?
俺はその吐き捨てるような物言いにちょっと驚いた。
奥さんは、栓を開けるとチューハイの缶をあおった。アルコールの液体が音を立てて通り過ぎていくその首筋に俺は見とれた。
そして、どこまでも止まらない喉音。
そのまま奥さんは一気にチューハイを全部空けてしまったのだった。
「ふう」
「大丈夫ですか?そんな飲み方」
「ときどきやってられないと思う時がある」
「そう、ですか」
「梶さんはおいくつ?私と同じぐらい?」
「あ。31です」
「同じだ」
そう言うと奥さんはテーブルに上半身を倒した。腕の上に乗せた顔の中の、あの思い詰めたような目が、今は俺の顔をとらえている。と思うとそのまま右腕が伸びて俺の左の手の甲を掴んだのだった。
「梶さんは31。彼女はいるの?」
「いません」
「いたことは?」
「ありません」
「女の人に触れたことは?」
「それは、その」
「風俗?」
「はい」
「そ。男の人はいい」
奥さんのもう一方の手も伸びて、俺の左手の甲は、彼女の手に強い力で包まれたのだった。その手が心なしか震えている。
「奥さん。大丈夫ですか?」
奥さんは泣いていた。
紅潮した目元から今、大粒の涙が落ちた。
「私はね。主人に触れられたことがない」
え?
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