6・ココロ⑧

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6・ココロ⑧

事情でこの小説の事は端折らなければならない。 なぜなら、小説はあまりに長かった。 そして、それは時に、あまりに意味不明だった。 「K」と言うタイトルのこの小説は、まず老人ホームを訪ねるボランティア活動のシーンから始まる。ともに大学の三回生である仏教学部のKと、その友人の文学部の主人公は、授業の一環で老人介護の現場に立ち会い、食事の世話をしていた。Sという女性が同じ場所で短大のボランティア部の活動をしている。彼女は短大の一年生だった。 この三人が、物語の主な登場人物だった。 主人公はどうも、先生のことらしかった。 Sと言うのは、静さん。つまり結婚前の先生の奥さんらしい。 三人は毎週、同じ現場でボランティア活動をしていたが、その内、先生とSは相思相愛になった。そこにまったく気付かないKという友人はお寺の子で、全てを仏道修行と結び付けて考える堅物だった。色恋沙汰にまったく理解を示さないKは「精神的向上心のない奴は馬鹿だ」と学問二の次の主人公に言い放つような男だったが、やがてそんな彼が、Sのことを好きになってしまう。 まじめなKは、自らの本分にそぐわない恋と言うものの存在におののき、どうすればいいのか主人公に相談を持ち掛ける。主人公は「精神的向上心のない奴は馬鹿だ」とKに言い返す。主人公だって、Sを取られてはかなわない。あきらめてもらうよりない。 翌年、主人公はSと婚約する。学生には違いなかったが、財産を持っている主人公にはそれができた。偶然そのことを知ってしまったKは、ある日、頸動脈を自らナイフで切って自殺してしまう。 Sは今もKの自殺の理由を知らない。 そして、主人公はそのことをずっと悔やむことになった。 つまりだ、つまり。 これは主人公が、かつての高校時代の藤原のように「ちょっと、うんこ」をやってしまったのだ。恋愛は真剣勝負だろう。どうしたって勝たなければならない。その意味で主人公は正しい。何も気に病むことなんてない。 Kは堅物すぎた。融通が利かなすぎた。 それゆえに、答えとして死を選んだ。俺なら死なない。悪いが俺はもっといい加減な自分と言う宗教の中にいる。Kの持つ宗教はまじめだった。しかし、人の信教に立ち入るのはタブーだ。彼の生き方に対する責任まで主人公が持つ必要はない。突き放すようだけれど、他者のこんな内面にまで入り込んで理解するなんて不可能に決まっている。 KはKで自己完結したのだ。 ホントはそこで終わっていい話だった。 しかし。 主人公は、いや、先生は、恋は罪悪なんて言葉に至る道をその後辿った。
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