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時刻が二十二時を超えたあたりで、ようやく賢治の手は止まった。定時である十八時を大幅に過ぎてもなお打鍵し続けた両の指たちは、ぴくぴくと動いて疲労を賢治に訴えている。
長く深い息を吐く。疲れているのは、指だけではない。額に右の掌を乗せて、なんとか今週のノルマを終えたことに安堵しながら目を瞑った。一体、何時までこんなことを繰り返すつもりなのだろう。
賢治は自然と舟をこぎ出した頭を慌てて横に振り、急ぎ目を開けて立ち上がった。仕事を終えたからといってリラックスしていると、寝落ちしてしまう。会社に残っているのはおそらく自分だけなので、会社で寝てしまっても問題はないのだが、せっかくの休日の目覚めが会社だなんて、現実の中で悪夢を見ているようなものだ。
さっさと帰って、寝てしまおう。そして、明日は思う存分惰眠をむさぼることにしよう。休日の予定とも呼べない予定を立てて、賢治は会社を後にした。
もたつく足で駅に向かっている途中で、自分と同じスーツに身を包む大人を大勢見かけた。足取り軽く、朗らかな顔をした者も数人はいたが、それは希少であって、大半が自分と似て疲れ切った顔をしていた。足取りは重く、首は自然と、若干、下に傾いていしまっている。
分かる。分かるよ。
心の中で同志を励ますように共感しながら、改札を通って電車に乗る。電車の中にも、たくさんの同志の姿があった。
家に帰ると家族が待ってくれている。そんな家庭環境であれば、もう少し晴れやかな気分になったのだろう。実際、つい先月まで交際していた女性と同棲していた賢治は、彼女の存在が嫌な現実からの逃避として非常に役立っていた。
しかしながら、疲弊し切っていることは紛れもなく事実であって、人は疲れていると怒りっぽくもなる。そのせいか、彼女との喧嘩は絶えず、とうとう業を煮やした彼女は別れ話を突き付け、有無を言わさずに家を出て行った。
自業自得。とは、思うが、彼女を責めたい気持ちもなくはない。疲れた身体でいつも相手をしてやっていたのだ、少しぐらい我儘を聞いてもくれてもいいだろうに。そんなことを思えば思うほど、自分が惨めに思えてきて、そして、その言い分はきっと彼女にもあったのだろうと、思わざるを得なかった。
静まり返った家に帰ると、物が少なくなったリビングに鞄を放り投げる。着ていたスーツも脱ぎ散らかして、即座にシャワーを浴びる。視界の端に映る浴槽を見て、一月ほど湯を張っていないことを思い出したりした。
身体を洗い終え、タオルに身を包みながら冷蔵庫の中のビールを一本取り出した。濡れたままの身体で一気に呷り、体内を水分とアルコールで満たしていく。
飲み終えてゴミ袋に空き缶を放り投げようと思ったが、どうやらゴミ袋を使い切ってしまっていたらしく、見当たらなかった。朝、捨てに行ったもので最後だったのか。
仕方なく、シンクの中に潰した空き缶を置いておくことにした。
適当に身体を拭き髪を乾かし、服を着ずにベッドの上に倒れ込む。明日は休日、それが終わるとまた朝早くから出勤だ。きっとまた、夜遅くまで残業が待っている。サービス残業、なんて言葉は誰が考えたのだろう。こっちはサービスしてやる気など、微塵もないというのに。そんなものが当たり前、となっている会社の風潮にも、嫌気が差す。
不平不満や愚痴は、腐るほど出てくる。しかし、日本社会のサラリーマンとして生きていくには、それらを甘受していかなくてはならない。
どれだけつらくとも、感情を押し殺さなければ社会では生きていけないのだ。
ロボットのように働いて。奴隷のように社会に跪く。
それでいい。
賢治は大きく息を吐いてから、ゆっくりと夢も見ない眠りへと落ちて行った。
目を覚ますと、時刻は十三時を迎えていた。死んだように眠る、を体現したような気分で、賢治は重たい身体をベッドから起こす。一日中眠ってやろう、などと思っていたが、人間という生物は融通が利かないらしく、十分な睡眠を取ると途端に眠れなくなってしまうようだ。
意識が目覚めたとほぼ同時に、腹の虫も悲鳴を上げた。冷蔵庫の中を覗いてみたが、食べられるものは入ってはおらず見当たるのはアルコールばかりだ。
昨夜から何も食べていないことを思い出して、余計に腹が空いた。
賢治は仕方なく重たい身体を動かして、ジャージに身を包んだ。近くのコンビニで何か買おう。一つあくびをして、外へと出て行った。
コンビニで昼飯を物色しながら、どうせなら夕食もついでに買って行くことにした。昼飯を食べて、夕飯を食べて、そして眠ればまた仕事だ。逃れられない苦行がまた訪れることを思うと、胃が痛くなってくる。だが、今こうして食べたい物を買えるのも、その苦行のおかげであるのは紛れもない事実だ。事実であって、現状なのである。
死ぬまでこうして生きていくのだろうか。だとすれば、自分は一体何のために生きているのだろうか。
落ち込んだ気分のまま、賢治は会計を済ましてコンビニから退店した。喉がかわいていたので、出てすぐにペットボトルコーヒーの蓋を開ける。喉を潤しながらふと横に目をやると、ゴミ箱の前で楽しくたむろする三人の小学生ぐらいの年齢の男の子の姿が見えた。
「おおー、すげー」
「それ、レアじゃん」
「俺、もう一個買ってこよ!」
少年たちが騒ぎながら手に持っているのは、よく見れば自分も昔集めていたカードだった。十五年近くも経っているのでデザインや形はいささか変化しているが、それでも、あのカードだ、という感慨深さが湧くほどに昔の雰囲気も備わっている。
はしゃぎ笑顔を見せる少年たち。買ったカードが全部しょぼかったり、ダブってしまったりして、悔しそうな顔も時折見せる。そんな姿が、少年時代の自分と重なって見えた。
あの時の自分は、カード一枚であんなにも笑って、あんなにも悔しそうにしていたんだな。
最後に心の底から笑ったのは何時だったか。最後に心底悔しい思いをしたのは何時だったか。
少年たちは、自分に視線を向けてくる変なおじさんの存在に気付き、少年たちもまた賢治に視線を向けた。
賢治には、純粋な彼らの瞳が刃物の切っ先よりも恐ろしく見えた。腐った心を突き刺し責めてきているような気がする。
大人になって、何が変わったのだろう。
賢治は、少年たちから視線を逸らし、短く息を吐いた。
くだらない無駄な人生は、この先も同じように進んで行くのかもしれない。でも、それでも。自分の心と向き合って生きていたい。
何をどうすればいいのかなんて分からない。分からないからこそ、心が示す道を、ひとまず進んでみよう。
あの、少年時代の僕のように。
とりあえず今は。また、あのカードを集めてみようか。
賢治は一度出たコンビニの中にもう一度入って行った。二回目の入店は心なしか、どこか身体が軽いように感じられた。
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