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雛見市は両の肩を跳ねさせて、直立不動の姿勢になった。
ほつれた毛束がひとすじ、目線を合わせるためにその背をかがめた潔良の頬に、ぺたり、と貼りついていた。
ごくり、と――伸ばされた彼の無骨な右手に、鋲で留められているように視線を固定したまま、雛見市が喉仏を上下させた。
「…………怖いことがあったんだ」
そのままの姿勢で、潔良が呟く。
うわごとのような、声色だった。
右手が少し、迷うようにぶれて、雛見市の口元に伸びる。
自らのゆびさきを凝視する彼になんの注意も向けていない ―― そんな、眼。
少しとろりとした色の瞳が、まっすぐに、目の前の彼を通り越したどこかを、みている。
「ひぃちゃん…… ?」
「何だか分かんねぇけど。すごく怖かった」
言葉を切る。
雛見市と目を合わせ、問うた。
「お前はさ。好意を向けられるのって、怖いと思うか?」
ぎこちなく、微笑む。
彼の頬に触れ、震える手で口唇に、軽く見えないルージュを引く。
「オレは正直、なんとも思わないんだ。どうせ、最後にはいなくなっちまうし、そもそも、そんな奴は、いねぇから。オレのことを好きになるなんて、終わってるとさえ思う」
ざわ、と木々が揺れる。バサバサバサ、とせわしく鳥が羽ばたく音。
生温い空気が沈滞している。
風もなく淀んでいる草木の匂いが、足元から二人を取り囲んだ。
雛見市が、きっ、と眼つきを鋭くし、投げかけた。
「なにが言いたいんすか」
「……」
「言いたいことがあるんなら、はっきり、言ってください。わかんないっす。センパイ」
潔良は少し黙った。
「あいつは――楚唄っていうんだけど」
うろり、と視線が、泳ぐ。
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