願いが叶う

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 朝だ。また朝になってしまった。  枕元に置いてある、やかましくなり続ける目覚ましを乱暴に止めると丹羽は起き上がった。  起きたくもなかったが会社に行かなければいけない。遊んで暮らせる金はなかった。  会社に行く準備をのろのろとしながら丹羽はため息をつきながら言った。 「同じだ。同じ事の繰り返しだ。何の起伏もない面白くもない人生。一体、このつまらない人生はいつまで続くのか。平坦だ。どこまでも続く平坦な道だ。レールの上を走る電車のように行く先も決まっている。もっと奇想天外な波乱に満ちた出来事があってもいいんじゃないか」  丹羽がアパートのドアを開けて外に一歩踏み出した時、頭上に広がる青い空が目に入り思わず声が出た。 「アホみたいな天気だ」 「お早うございます。いい天気ですね」  不意に声をかけられて丹羽は驚いた。  声のする右手側を見ると、隣の部屋の住人が箒と塵取りを手に自分の部屋の前の廊下を掃除しているところだった。六十過ぎの禿げた頭に眼鏡をかけた野口という男だが、丹羽はこの男の名前を知らなかった。側には透明な七十リットルサイズの袋が置いてあり、結構な量の落ち葉が集められていた。 「えっ、ええつ、いい天気ですね」 「いやまったくいい天気だ。こんないい天気は滅多にお目にかかれるものではありませんよ。あるいはもう二度と経験できないかもしれません」  野口の部屋は二階の角にある。アパートは周囲をいちょうの木で囲まれていて、その葉が廊下に舞い落ちてくる。風が吹くと廊下に散っている落ち葉が集められて隅に溜まりを作る。その溜まりが野口の部屋の前になる。掃除をしている今でも続々と落ち葉は集まってくる。  丹羽は軽く野口に頭を下げると階下に向かった。 「今日はきっと人生最良の日になりますよ」  野口の声が丹羽の背後から追いかけてきた。 「人生最良の日だと。あんたはいいよな。定年してのんきに暮らしているんだから。俺にとって人生最良の日はあんたのように会社に行かなくても暮らしていけるようになった日だよ」  丹羽はアパートを出たばかりなのに疲れた顔をして駅に急いだ。  八時少し前に到着する電車を丹羽は待っていた。ホームは人で溢れている。一昔前は周囲は一面が緑一色の畑ばかりの田舎町だったのに、タワーマンションが建ってから一変した。都心まで電車で二十分の好条件もあり人が一気に増加したのだ。そのせいで通勤もおだやかでない。  電車がホームに入ってきて扉が開くと、自ら進まなくても丹羽は車内に入った。後ろから、もっと早く、もっと奥への意思が力となって丹羽を車内へ押し込んだのだ。 「ああ」丹羽は溜め息をついた。  電車は隣の駅に到着した。既に車内は混み合っている。それなのに駅には乗り切れるのだろうかと目を疑いたくなる数の人の姿で溢れていた。 『本日、○○線が信号機故障のため全線で運転見合わせ中でーす。振り替え輸送を行っておりまーす』  車内アナウンスを聞いて丹羽はげっそりした。〇〇線は丹羽が乗っている路線と平行に都心に向かって走る路線である。その路線が全線運転見合わせという事は、〇〇線に乗ろうとしていた多くの乗客達は大多数が丹羽の乗っている路線になだれ込んでくるのだ。  扉が開いた。  ホームからの乗客は、押して、突いて、踏ん張って、蹴りを入れ、靴を踏み、ネクタイを引っ張り、不可抗力とばかり下卑た男が女子の胸を触り、閉まる扉に上着の裾を嚙ませながら、電車は次の駅へと向かった。  終点の『大都会駅』までまだ数駅ある。それまでに降りる乗客はほぼ皆無であり、これからも車内の人口密度は増える一方になる。 「うわっ」  丹羽の溜め息は小さな叫びに変わった。  電車がスピードを上げて走ると数回の大きな揺れがあった。その度に乗客の唸る声、押し潰されて腹から出る声、ストレスの溜まっていそうな咳払いがあちこちで聞こえた。そんな中で自分の背中に伸しかかってくる重みに丹羽は必死に耐えていた。握りしめている吊り革に力が入る。吊り革のベルトが切れるのでないかと思えるほどだ。だがたった一本の吊り革に頼らないと前の席に座っている乗客に倒れ込んでしまいそうになるのだ。  電車は一転して反対側に大きく揺れた。潰されそうな状態にあった丹羽は、ようやく一息つき今度は逆に伸しかかる立場になり、今まで自分に伸しかかってきた乗客達を苦しめた。笑顔など車内のどこにもない。苦痛と、怒りと、諦めと、こんな状況の中でも無表情にスマホを見ている顔で満ちていた。 (楽にさせてくれ)  丹羽は何者でもない何かに懇願した。  電車は駅に着いた。  もうこれ以上乗れない程なのに電車を待っていた乗客は強引に押し入ってくる。力と力のぶつかり合い。押さなければ逆に押し出されるのだ。必死の形相をした男達、女達が肩を、肘を、尻を、膝を、体中のありとあらゆる箇所をぶつけ合い、絡ませ合っている。自分の腕が今どこにあるのか分からない者までいる。これが働く人々の朝のコミュニケーションの取り方なのだ。  電車は暫くするとスピードを緩めた。そして随分ゆっくりと走った。  丹羽は自分の体が進行方法とは逆の方向に傾いていくのが分かった。斜面を登っているような感じだった。 (おかしいな?)  丹羽は窓の外に視線を向けた。電車が間違いなく斜めに走行しているのが分かった。周囲の建物との位置関係が並行ではなく、電車そのものが徐々に斜めに上がっていく。勾配は三十度はあろうかという急角度だった。 (こんなところに坂があったか?)  丹羽には覚えがなかった。平坦でまっすぐな道を東西に走っていくのがこの路線の特徴だった。『大都会駅』近くでゆるやかなカーブがあるが、そこ以外は吊り革に掴まらなくても十分立っていられるのだけが自慢の路線なのだ。急斜面などあり得なかった。  電車はゆっくりと斜面を上がっていく。乗客のほとんどは体が斜めになり、自分の体を支えきれなくなった者達が後方へ雪崩のように倒れていく。さっきまで窓外に見ていた家の屋根も電柱も見えなくなった。周辺に高層ビルは建っていない。もはや高さで匹敵する建物はなくなった。  電車はガタガタと斜面を上がり続け、やがて停止した。 『電車揺れますのでお近くの吊り革手すりにお捕まりくださーい』  車内放送が平然と流れた。 (車掌は分かっているのだな。これは異常ではなく通常の運転なのだな)  丹羽はいつもは車内で目を閉じて吊り革に掴まったまま立っている。そのせいで斜面がある事に気づいていなかったのかもしれないと思った。実際、こんな急坂はあり得ないと思っていたが、通常運転と思わなければ理解できる事ではなかったのだ。  次の瞬間、電車は一気に今まで上がってきた高さから落下するようにほとんど直下へ急降下を始めた。高所まで上がった際に蓄えられた位置エネルギーが運動エネルギーに変わった。  車輪が火花を飛ばした。 『右に曲がりまーす』  車体は右側に急カーブした。乗客は左側に叩きつけられた。 『左に曲がりまーす』  今度は左側への急カーブ。乗客は右側に飛んだ。 『回転しまーす』  ぐるりと一回転した。 『こぶを超えまーす』  飛び跳ねるように山を越えた。  丹羽は車内で、もはや意識なく身体だけが車内の中をぐるぐるとかき回されていた。  窓ガラスがあちこちで割れ、車内からヒト型の塊が外に投げ出された。  電車はやがて残された最後のエネルギーを使って斜面を登った。 『毎度ご乗車ありがとうございましたー。次は終点『大都会駅・裏』です。皆さまの本日が素晴らしい日になる事をお祈りしまーす。お降りの準備は一切不要です。それでは、前方にご注意をー』  電車は線路の上を走り斜面を上がった。目の前には青い空と照りつける太陽があるだけだった。  線路が斜面の途中からぷっつりとなくなった。電車は止まりそうなスピードで走っていき、線路の先端に達するとほぼ停止した、車両が線路の先端より前に飛び出た。落ちるのか、留まるのかの境目でふらふらしていたが遂に宙に飛び出した。後はそのまま自由落下運動で落ちていくのみだった。  野口は廊下の落ち葉をゴミ袋に入れ終わると思いっきり伸びをした。  ぱんぱんになったゴミ袋を持ち上げたが、中は落ち葉なので袋は一杯になっても重さはなかった。  野口は袋を抱えると廊下の手すりまで寄った。階下に人の姿はない。野口は手を伸ばしてゴミ袋を手すりの向こう側に持ち上げるとゴミ袋を一気に逆さまにした。袋に入っていた大量の落ち葉が一気に袋の中から飛び出し宙を舞った。 「あははははは。落ち葉は自由だ」  野口は満足した顔になり自分の部屋に戻っていった。                 了
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