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一つは単純に仕事があったから。
菫が勤務する市民交流センターは言うまでもなくこの商店街にある。だから、もちろんこのイベントにブースを出している。しかも、市の施設だからどのコースでも回らないければならないブースに指定されている。ブース運営は企画係の担当だが、当然、人員が大幅に割かれるわけで、大抵ハロウィンパーティーの日は出勤日だった。
それが、今年はどういうわけなのか、休みになっていた。以前、鈴がカウンターに来た時に『ハロウィンパーティーの日って休館日とかじゃないですよね?』と、聞いていたのを誰ぞ(誰とは言わないけれどおそらくはアリスのコスを用意した人物)が聞いていて、こっそり副館長に菫の休みを直談判したとかしないとか、噂は流れてきたけれど、真偽は不明だ。
とにもかくにも、今年は勤務日ではなかったので、ダメもとで鈴を誘ってみたのだ。
「なんか。わくわくするな」
鈴が。OKしてくれるとは思わなかった。
先述した通り、鈴は人混みが嫌いだ。いや、人自体が苦手だ。
鈴みたいに綺麗に生まれついてしまうと、注目されない人生などありえない。そういうのを楽しめる人ならいいけれど、鈴は違う。だから、人混みを避ける。
わかっているけれど、菫は鈴といろいろなことを共有したかった。大好きな鈴。菫にとっても初めてできた、心から好きだと思える恋人。
美味しいものを一緒に食べたかったし、綺麗なものを一緒に見たかったし、一緒に楽しいことをたくさんしたかった。
このイベントに参加したもう一つの理由。
それは、鈴という恋人ができたこと。だ。
「そうですね」
浮足立った気分のまま鈴の顔を見上げると、菫よりずっと高い位置にある顔はやっぱり笑っていた。
す。と、その大きな手が耳元に触れる。指先がゆっくりと髪を梳いて、離れる。
「鈴?」
こんな人混みの中でのコミュニケーションとしては、少し行き過ぎじゃないだろうか。男女のカップルならいざ知らず、男友達の髪に触れる機会なんてそんなにあるもんじゃない。その証拠に後ろに並んでいた高校生らしいグループの一人が驚いたような顔をしてみている。
「ゴミ。ついてました」
指先に摘まんでいた糸くずを見せて、鈴がいつもより大きめな声で言う。言い訳と解説。
鈴が、す。と、視線を巡らせると、まだ二人を見ていた男子高生と視線が交錯したようだった。さっきまでの笑顔はどこへ行ったのか、ふ。と、鈴の表情が消える。イケメンの不意打ちの真顔に一瞬ぽかん。という表情を見せた後、男子高生は慌てて視線を逸らした。これは、牽制。
「あ。ありがと」
鈴は随分と年下だけど、恋愛で盲目になってしまうようなタイプではない。ここが菫の職場の目の前だということもちゃんと理解している。だから、必要以上のスキンシップをとって、怪しまれるようなことは絶対にしない。菫が図書館司書という仕事を大切にしていることも、それが市の職員という固い仕事だということもちゃんとわかっているからだ。
それでも、鈴が触れた髪が熱を持っているような気がする。
気のせいだろうか。
そう思って鈴を見ていると、しばらく男子高生を見ていた鈴は、菫の視線に気づいたようにこちらを向いた。そうして、また、嘘みたいに綺麗な笑顔を向けてくれた。
その形のいい唇が動く。
う。そ。で。す。
それから、悪戯っぽく笑って、持っていた糸くずをポケットにしまった。
何が? とは、聞かない。
きっと、菫にとって都合のいい解釈が正解だ。
「次の方。こちら。どうぞ」
長机にいくつも並んだ受付カウンターの内の一つから職員がひらひら。と、手を振っている。
促されるまま、菫と鈴はカウンターに向かった。
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