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第1話 眠りたくない漫画家の願い
「はぁ……やっとネームが書き上がった……」
漫画家・田島晴は、大きく伸びをした。
時計を見れば、時刻は深夜の二時を回っている。
出来上がった漫画のネームは、明日の朝には担当編集との打ち合わせに持っていかなければいけない。編集者との打ち合わせの時間は朝の九時。今から眠れば、七時間は睡眠を確保できる計算だ。
田島は、倒れるようにベッドに身体を沈めた。
「他にも、やることがいっぱいある……。週刊少年〇〇の原稿も仕上げなきゃならないし、今度単行本が出るから特典の描き下ろし漫画も考えないといけない……。寝てる場合じゃ、ない、のに……」
しかし、彼の身体は人間の三大欲求である睡眠欲には抗えない。
多忙な漫画家は、気を失うように眠りに落ちた。
田島は人気爆発中の売れっ子漫画家だ。複数の連載漫画を抱えており、それらは彼の許容量を超えようとしていた。一日中働いても働いても、彼の仕事は次々と舞い込んでくる。毎日〆切と、ひりつくようなデッドヒートを繰り広げているのだった。
こんな生活が長続きするわけがない、と彼は考えていた。仕事の量を少しでも減らさないと、人間らしい生活を送れない。しかし、漫画家という収入の不安定な職業は、とにかく仕事が出来るうちにどんどん案件を請け負わなければならない。もしも漫画が描けなくなっても、安定した生活を送るためには印税が必要だ。その印税は、単行本の売上で決まる。結果、大ヒットする作品を作るために、日夜働き詰めになっているのだ。
田島の身体は限界を迎えている。このまま過労で倒れてもおかしくない。
「せめて、睡眠を必要としない身体になれれば……」
彼はいつしか、そう考えるようになっていた。
ヒトの睡眠時間は、個人差はあれど七〜八時間は必要と言われている。
それはつまり、二十四時間しかない一日の三分の一を占めていることになる。
田島は、その睡眠によるタイムロスを嫌っていた。
眠くさえならなければ、睡眠の時間がなくなれば、自分はもっとバリバリと漫画作業に打ち込めるはずだ。少なくとも彼はそう信じていた。
そんな彼の前に現れた、とある存在が、彼の人生、彼の運命を大きく変えることになる。
ある日、田島は取材に出かけていた。漫画で街並みを描くために、街なかの写真を撮ろうと思ったのだ。
今の時代、漫画用の背景素材など星の数ほどあるのだが、人気の素材は当然漫画家はみんな使う。場合によってはアマチュア漫画家だって使っているようなものだ。読者にそれを気付かれたくないという思いが、田島にはあった。
それに、素材も万能ではない。田島の描きたいアングルの素材があるとは限らない。やはり、自分で街に出かけて、理想の風景を自分で描くのが一番いい。
写真を撮りながら商店街を歩いていると、骨董品店のような店が目に入った。小さな天使がラッパを吹いている石膏像が、入り口に置かれている。興味を持った彼は、店の中に入ってみることにした。
店内は、ゴチャゴチャと雑多に品物が置かれている。店というよりも物置のようだと思ってしまう。田島は、カウンターに座っているおばあさんに声をかけた。
「すみません、わたくし、漫画家をしております田島という者ですが、店内の写真を撮らせていただけませんか?」
何かの資料になるかもしれない、と考えての発言だった。
「ええ、構いませんよ」
背丈の小さな老婆は、まるで子供の頃によく通っていた駄菓子屋のおばあさんに似ている。老人なんて、たいてい似たような容姿になるものだが。
田島は、パシャパシャとスマホのシャッターを切る。デジタルカメラなんてなくても、スマホで十分なので買っていない。
商品の写真を撮っていて、ふと、ある商品が目に入った。ロザリオのようだった。数珠のようなネックレスに、十字架がついている。これも商品なのだろう。骨董品らしく、年代を感じさせる。田島はそのロザリオから、何故か目が離せなかった。
「――すみません、このロザリオ、買い取ることは出来ますか?」
田島はなんとなくロザリオに惹きつけられて、購入してしまった。
彼は別にキリスト教徒でもなんでもない、無神論者だ。特定の宗教には入れ込んでいないし、むしろ宗教にハマる人間を冷めた目で見ているタイプの人間だ。それでも、なんだかこのロザリオには魅力を感じた。まあ、アクセサリーとしておしゃれをしたいときに身につければいいかな、なんて考えていた。
家に帰って原稿をしながら、作業机の上に置かれたロザリオをふと見やる。
あの店のおばあさんの話を思い出していた。
「そのロザリオは、祈る人の願いをひとつだけ叶えることが出来ると言われています。天使が宿っているのです」
田島は、そんな突拍子もない発言をする老婆を、心のなかで「何を言っているんだ、この婆さんは」と思っていた。
「僕は、天使とか願い事とか関係なく、このロザリオがほしいのです」
そう言い切って、代金を払い、ロザリオを手に店を出た。万能の願望器のわりには、値段は三千円ほどだった。
「願いを叶えるロザリオ、ねえ……」
そんな漫画を描いてみるのもいいかもしれないな、と思ったその時。
「キミも願い事があるの?」
誰もいないはずの作業部屋、田島の背後から声がして、彼はぎょっとした。
「だ、誰だ!?」
振り返ると、少年が立っていた。
色素の薄い金髪に、白い肌、整った顔立ち。完璧に美しい少年だった。
「ボクはカナエル。天使カナエル。キミの願いを叶えに来たよ!」
にっこり笑う少年に、田島は不審感をあらわにする。
「天使だと? いい加減なことを言うんじゃない。どこから入ったか知らないが、今すぐ出ていかないと子供でも警察に通報するぞ」
「ニンゲンはいつもそうだね。ボクの言うことを一度で信じてくれるヒトはいない。証拠を見せないといけないかな?」
そう言って、カナエルと名乗る少年は、背中からブワッと何かを広げる。
――翼だ。
純白の鳥のような翼が生えている。それに、頭の上に光る輪まである。
「ほ、本当に天使、なのか……?」
「これで信じてくれたかな?」
カナエルの言葉に、田島はぎこちなく、こくこくと頷く。
「それで、その天使様は、何しに来たんだ?」
「もちろん、キミの願いを叶えに来たんだよ」
カナエルはあどけない微笑みを浮かべている。
「そのロザリオを持っているニンゲンの願いを、なんでもひとつだけ叶えてあげる。キミの願いはなに?」
田島にとっては突然の事ではあったが、彼の日頃からの渇望は既に決まっていた。
「俺を、睡眠の必要ない身体にしてくれ」
「いいよ」
天使はあっさりと承諾した。
その途端、田島の身体からは眠気の一切がなくなったのだ。
それからの彼は、バリバリと精力的に作品を作り続けた。
眠気もなく、睡眠を取る必要のなくなった彼は、ネタ帳に溜め込んだネタをすべて吐き出すまで漫画を描きまくった。
それを、天使カナエルは後ろからニコニコと見守っている。
この少年は、まさしく天使だ。俺の願いを聞き届け、人智を超えた力を与えてくれる。
そうして田島が描き上げた作品の数々は、単行本がロングセラーになった。
もう彼が漫画を描く必要もないほど印税が転がり込んできたし、そもそも彼のネタの泉も涸れ果てた。
しかし、彼がもう睡眠をとってもいい状態になっても、一向に眠気は訪れないのである。
せんべい布団に横になり、音楽を聴きながらなんとか眠りに落ちようとしても、朝日を迎えてしまう。
仕方なく夜通し本を読んだりゲームをして過ごしていたが、いい加減そんな夜を過ごすのにも飽きてしまった。
「おい、カナエル、もういい。頼むから俺を眠らせてくれ」
「? 願い事はひとつしか叶えられないよ」
「願い事をキャンセルするって言ってるんだ! もう眠れない夜はたくさんだ、眠らせてくれ!」
そもそも人が睡眠を必要とするのは、脳が頭の中を整理するためと言われている。夢を見るのも、その過程の中で生まれるものだ。
しかし、二度と眠ることの叶わなくなった田島は、脳の中の情報を整理することが出来ない。もう頭の中がパンクしそうだ。
だが、天使の返事は残酷なものだった。
「願い事はキャンセルもクーリングオフも出来ないよ。キミは一生睡眠を必要としない。キミが望んだことでしょう?」
――そうして、絶望した田島は、自ら首を吊った。やっとのことで彼は永遠の眠りについたのである。
「これでまたひとつ、ニンゲンの願いを叶えたぞ! 次は誰の願いを叶えようかなあ」
天使カナエルは、無邪気に笑いながら、ロザリオとともに姿を消した。
これは、天界から遣わされた天使カナエルが、人々の願いを叶えるために奔走するお話である。
〈了〉
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