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第2話 姉に復讐したい妹の願い
「私、言ったよね? 今日ちゃんとゴミ出ししとけって。今日、燃えるゴミの日なのよ? 来週まで生ゴミをそのままにしとくつもり?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……殴らないで、殴らないで……」
嗚咽とともに泣きながら震える声と、バシッ、バシッと平手打ちする音が部屋の中に響く。
結城ゆいは、姉のゆかりに暴力を振るわれていた。
姉とのふたりきりの生活が始まったのは、一ヶ月ほど前からのことである。
親の仕事の都合で、両親が海外赴任することになったのだ。
ゆいは二十五歳、姉のゆかりは一つ違いの二十六歳である。
彼女たちは小さい頃から序列が決められていた。姉がゆいに暴力をふるい、彼女を恐怖で支配していたのである。
髪の毛をつかまれて床を引きずり回されたときのトラウマを、ゆいは未だに抱えている。
二十五歳になった今でも、姉に話しかけられただけで内心萎縮してしまう。
そんな姉と、親という緩衝材のない状態でひとつ屋根の下で共同生活を送れと言われたときのゆいの気持ちを想像してみてほしい。
「ただいま……」
ゆいはボソリと独り言のように暗い声で帰ってきた。
姉はゆいの存在に気付いていないようで、動画サイトを見てはゲラゲラ笑っている。
ゆいは仕事を終えて家に帰ったら、まず夕食を作らなければならない。姉は料理が下手なのだ。
姉は仕事をしていない。いわゆるニートだ。一時期お小遣い欲しさにバイトをしていたようだったが、サボりがちだったので、すぐクビになったようだ。
(こっちはバイトから帰ってクタクタなのに、長女っていうのはそんなに偉い立場なのかしら……)
内心腹が立ったが、ゆいは姉に恐怖を感じているため、面と向かって文句が言えない。姉ににらまれただけで何も言えなくなってしまう。以前、「家事分担くらいしてよ」と口答えしたら返事の代わりに拳が飛んできた。それ以来、黙って自分で家事をしている。
姉との生活に限界を感じていたので、海外の親に助けを求めたこともある。しかし、親の返事は「ゆかりの面倒を見てやって」それだけだ。親にとっては妹より姉のほうがお気に入りの娘だったのだ。姉は顔だけは可愛く、学生時代は読者モデルをしていたこともあったのである。
ならばこの家から逃げ出そうと一人暮らしできる物件を密かに探しているが、バイトの収入だけでは家賃を払えそうな物件がない。家賃を払うだけでバイトの収入が吹っ飛ぶのだから、その上に電気代やガス代など支払えないし、買い物すらもできない。結局、彼女はこの家に縛られ続けるしかない。ゆいは生きながらにして死人のような生活を送っていた。
ある日、とうとう彼女の精神は限界を迎えた。
「洗濯しておいたから」と姉に自室まで来られて洗濯物を床にポイと投げ捨てられたのを見て、彼女の中でなにかが爆発した。
一日だけでいい、物理的に離れたい。
ゆいは着替えと財布とスマホ、充電器などをカバンに詰めて、家を出た。
温泉街の一番安いホテルに部屋を取り、温泉に入って日頃の疲れを取った。命の洗濯というのはこのことだろう。自分の中のもやもやした汚れが落ちていくような感覚だった。
久しぶりにひとりの時間を満喫し、リフレッシュした気分だった。
でも、それは一時的なものだった。スマホを何気なく見ると、メールの通知が来ていて、中を開けば、姉からのメールが十件以上並んでいる。
『今どこにいるの、早く家に帰ってきて、私の夕食を作ってよ』
げんなりした。ゆいの腹の中に、またどす黒いもやもやが溜まっていく。
結局、姉を根本的にどうにかしないと、自分が救われることはないのだ。
「誰か、助けて……」
ゆいが目に涙を浮かべながら、そうひとりごちたときである。
「いいよ」
自分一人しかいないはずの部屋に、誰かの声が聞こえ、びくりと肩を震わせる。
「だ、誰!?」
振り向くと、中性的な顔立ちの天使が立っていた。
「ボクはカナエル。天使カナエル。キミの願いを叶えに来たよ!」
そう言って、彼は背中の翼をはためかせる。本物の翼だ。
「願いを……叶える? なんでも?」
「そう、なんでも」
ゆいの今の頭の中には、復讐しかなかった。
「私には姉がいるの。彼女が最初から存在しなかったことにして。アイツは天国にも地獄にも行けない、最初からいなかったことにするのがふさわしい!」
「いいよ。キミの願いはもう叶った」
それだけ言って、ゆいがまばたきをした瞬間には、もうカナエルはいなかった。
ホテルをチェックアウトして、早速家に真っ直ぐ帰ると、姉は家にいなかった。
海外の親に、「私って何人姉妹だったっけ?」とメッセージを送れば、「いきなり何? うちはあなたひとりっ子でしょ?」と不思議そうな返事が返ってきた。
やっと姉の呪縛から解放された。心の安寧を手に入れた。
ゆいはしばらく喜んでいたが、数日経って異変に気づいた。
姉がいなくなってから、家の掃除が行き届いていないことに気付いたのだ。
姉はゆいに家事をすべて押し付けているように見えたが、実際にはゆいが掃除をしても見落としがあったところは、姉が仕上げに綺麗にしていたのである。
皿洗いも、洗濯もそうだ。ゆいが気付いていないところで、姉は密かに彼女をフォローしてくれていたのだ。
(お姉ちゃんは、ニートだったけど、自分のできる範囲のことはちゃんとやってくれてたんだ……)
ゆいの心には、少し寂しいものが残った。
自分の復讐は、正しかったのだろうか。もしかしたら、お互い本音をさらけ出して、腹を割って話せば、分かり合える部分もあったんじゃないのか。
しかし、もう姉は戻ってこない。最初から存在しないことになってしまったから。彼女はもう、天国にも地獄にもいないから、天使カナエルが連れ戻すことも出来ない。
もう取り返しのつかないことをした自分は地獄に落ちるのだろうなと思いながら、ゆいは一人分だけの夕食を作っていた。
天使カナエルは、そんなゆいを見守りながら、「願いが叶ってよかったね!」と言い残して、次の願いを叶えるために、翼をはためかせて飛び去っていくのであった。
〈了〉
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