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第3話 天使に恋をした女の願い
小牧かな子は彼氏にフラれて傷心気味だった。
とあるクリスマスのことである。
高級レストランでディナーを楽しんでいたはずが、ふとしたことから口論に発展し、そのまま喧嘩別れに……。
「なんなのよ、もう!」
かな子は居酒屋でヤケ酒を飲んで、すっかり酔っ払っていた。
そのまま家に帰る途中、公園に立ち寄り、ベンチに座ってシクシクと泣き始める。
ベンチは雪が積もっていて、おしりが濡れていたが構わずべしょべしょと泣き続けた。
結婚を約束した仲だったのに、あっさりと捨てられてしまった。その失望は、彼女の生きる意思を失わせるのに充分だった。
かな子はベンチに座ったまま、ウトウトと眠り始めた。
そのまま誰にも見つけられず、彼女は凍死する――はずだったのだ。
「大丈夫?」
顔を上げると、美しい天使が立っていた。
中性的な顔立ちで、性別はわからない。
それでも、かな子は見とれてしまった。おそらく、一目惚れだったと思う。
「あなたは……?」
「ボクはカナエル。天使カナエル。キミの願いを叶えに来たよ!」
カナエルと名乗る天使は、無邪気な笑顔を見せる。それすらも美しくて、思わず顔が上気する。
「願いを……叶えてくれるの? なんでも?」
「そう、なんでも」
「じゃあ、あなたが私の恋人になってよ」
思わず、そう口走っていた。
「私は彼氏にフラれたのよ。これはきっと神様のせいなんだわ。だから、天使であるあなたが責任を取るべきなのよ」
自分でも、よくわからない理屈だった。それでもかまわない。この天使を手に入れるためなら、屁理屈だってこねてやる。
カナエルはキョトンとした顔をしたあと、「いいよ!」と純朴な笑顔を見せた。
こうして、かな子は天使の恋人を得たのである。
凍死寸前の夢だと思っていたのだが、目が覚めれば自分の住んでいるアパートのベッドに寝かされていた。
「おはよう、朝食できてるよ」
昨夜、恋人になったばかりの天使様――カナエルが、かな子のエプロンを拝借しているらしい。キッチンからは、香ばしい匂いがしていた。
フレンチトーストに、塩コショウのかかった目玉焼き。茹でたてのアスパラガスはカリカリのベーコンにくるまれている。見た目にも、香りも、食欲を大いに刺激した。
朝食はかな子ひとり分だけで、カナエルはかな子を見てニコニコと微笑んでいる。
「あなたは食べないの?」
「ボクには『食べる』という機能がないから」
「ふぅん」
天使というのはそういうものなのか、と首を傾げながら朝食を平らげる。
「そういえば、戸籍とか保険って、天使様の場合はどうなるのかしら」
「心配いらないよ、ボクは病気になることもないし、そういったものは必要ない。必要に応じて他人から見えないようにすることもできるから」
「そうなんだ?」
本人がそう言うのなら、そうなのだろう。
クリスマスの夜が明けて、かな子はいつも通り、会社に行かなければならない。朝の支度を終えて、彼女はスーツに袖を通し、滑り止めの加工がされたショートブーツを履いた。昨日から降っている雪が、まだうっすらと積もっているのだ。
「いってきます」
「いってらっしゃい、気をつけて」
かな子はなんだか、フワフワとした気分のまま、家を出て電車に乗りこんだのである。
天使の恋人ができたなんてファンタジーみたいな話、夢でも見ていたのかと思っていた。
しかし、家に帰ればあの天使が笑って出迎えてくれるのであった。
「おかえり。今晩はシチューにしたよ。外、冷えたでしょ?」
カナエルは目を細めて優しく微笑みかけてくれる。
ポロッと、かな子の目から不意に涙がこぼれた。
カナエルはそれに動じるわけでもなく、黙って頭を撫でるだけだ。
「今日も課長に怒られたの。あの人はいつも理由をつけて私を叱るの。きっと嫌われてるんだわ」
「そっかぁ」
カナエルは肯定も否定もしない。ベッドの端に座ったかな子の隣に、寄り添うように座っている。
「ねぇ、カナエル。あの課長をやっつけてよ」
「願いはひとつしか叶えられない。キミは『ボクに恋人になってほしい』って願っちゃったから……」
「そう……」
かな子はなんだかガッカリしたが、まあ仕方ない。
それに、こんな素敵な彼氏がいるのなら、もう他に何も望めなくてもいい。
かな子はそっとカナエルの唇に触れた。カナエルはきょとり、と目をぱちくりさせている。
「カナエル……」
かな子が優しく口付けしても、カナエルは目を開いてじっと彼女を見つめているだけだった。
「カナエルは恋人同士がすること、知ってる?」
天使を穢すというのは、なんだか背徳感がある。かな子はキスをしながらカナエルの身体に手を伸ばすが、違和感を感じた。
「か、カナエルってもしかして、女の子……!?」
カナエルには、男性についているべきものの手触りが感じられない。胸がないだけの女性なのだろうか? しかし、見た目は美少年のように見える。
カナエルの返答は、かな子に衝撃を与えた。
「ボクに『性別』という機能はないよ。必要ないから、そういう風に製造された」
「性別がない……? 製造……?」
「天使は神の手により製造されるものだから、食事機能も性別機能も必要ないものとされた」
なんでもないことのように答えるカナエルに、かな子は初めて不気味さを感じた。
そもそも、『天使』と自然に信じきってしまっていたが、『これ』は本当に『天使』なのか?
かな子はだんだんカナエルの存在が怖くなってきた。
「カナエル、悪いけど、私達、別々に暮らさない? っていうか、家から出ていってほしい」
「どうして?」
カナエルは不思議そうに首を傾げるばかりだ。
「ボクの料理は美味しくなかった? ボクはキミの恋人にふさわしくなかった? ボクに不満があるなら明確に言葉にしてほしい」
「料理は美味しいし、カナエルは優しいけど……私、恋人と結婚して子供を作って、家庭を持つのが夢だった。なのに、恋人に性別がないなんて、私の夢が、人生設計が壊れちゃうじゃない!」
「??? 理解不能。ボクはキミの願いを叶えた。キミはボクに恋人になってほしかったんじゃないの?」
「性別がないなんて聞いてない! この願いは無効よ!」
「願いはキャンセルできないよ。子供が欲しいなら、神様に頼んで受胎する?」
なんでもないことのように言ってのけるカナエルに、嫌悪感が湧いた。
「気持ち悪い……」
「大丈夫? 体調が悪いの?」
「そういう意味じゃない! アンタ、こっちが理解不能だわ! 気味が悪い、出てって!」
かな子はカナエルを家の外に押し出し、玄関の鍵を閉ざした。玄関ドアの覗き窓を覗き込むと、天使カナエルはじっとドアの前に立ち尽くしていた。ゾッとしたかな子は慌ててドアにチェーンをかけ、ベッドに飛び込んで震えて一夜を明かした。
翌日、会社に行く前に恐る恐る覗き窓を見ると、もうカナエルはいなかった。
念のため、戸締まりは厳重にして会社に出かけた。
しかし、お昼休みになって、お弁当を忘れたのに気付いた。外食するか、コンビニで弁当を飼うか、はたまた社員食堂にでも行くか――。
そう考えていると、内線で「お客様がいらしております」と受付から連絡が来た。
誰だろう、と受付まで行くと、そこにはあのカナエルが立っていた。ゾワッと身の毛がよだつのを感じる。
「あ、アンタなんでこんなとこに……」
「お弁当箱、忘れてたから」
かな子は「私につきまとわないで!」と叫び出したいのをこらえた。ここは社内だ、荒事は起こしたくない。
引きつった笑顔で「あ、ありがとう……」とお弁当を受け取る。
「ところで、窓もドアも鍵はきちんと掛けたはずだけど、どうやって侵入したの?」
「霊体化すれば簡単だよ」
以前話していた、『他人から見えなくなる能力』だろうか。
「……もしかして、その『霊体化』とかいうやつで、一晩中私を見ていたの?」
「キミの寝顔は、見ていて落ち着く」
ブワッと全身の鳥肌が立った。
カナエルはそれを気にすることなく、「体感温度の低下を検知。今日は寒いからね。今晩はカレーを作って待ってるから」と、会社の玄関を出ていってしまった。
受付嬢はカナエルに見とれていたらしく、「ちょっと、小牧さん!? 誰、あのイケメン!?」と騒ぎ始めた。
「小牧さんにあんなカッコいい彼氏がいたなんて聞いてない!」
「結婚を前提に付き合ってるの?」
「あれ? でも前の彼氏と違くない?」
受付嬢や他の社員に問い詰められ、かな子はやはり、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
(冗談じゃないわ、あんな人間ですらない、薄気味悪い『何か』と結婚を前提に、だなんて……)
そして、仕事終わり、彼女は家にはまっすぐ帰らず、警察署に駆け込んだ。
ストーカー被害として相談しようと思ったのである。
まずカナエルが天使であることは信じてもらえないのでその事実は伏せて、「お付き合いしている人がドアの前で待ち伏せしたり、家の中に勝手に侵入してくる」といった主旨の被害を訴えた。
しかし、警察はあまり相手にしてくれなかった。
「うーん……それだけだとちょっと弱いかな……」
「そんな! 私は精神的苦痛を受けているんです! きっと今も家の中にいて、私を待ち伏せしてるんだわ!」
「我々目線で見ると、交際相手との痴話喧嘩にしか思えないんですが……。もう少し具体的で直接的な被害を受けていれば、まだ動きようがあるんですが……」
「そんなノンキな……! 何かあってからじゃ遅いでしょ!」
かな子は必死に訴えたが、警察署からつまみ出されてしまった。
警察署の前では、カナエルが待っていた。
「ひっ……!」
「帰りが遅いから迎えに来たよ。カレー、家に帰ったら温め直さないとね」
そんなカナエルとかな子を見て、警察官は朗らかに笑う。
「良い彼氏さんじゃないですか。大事にしてあげないと逃げられちゃいますよ、こんな優良物件」
(私が逃げ出したいのよ……!)
その後も周囲に相談し、助けを求めたが、彼らはかな子を相手にしなかった。
カナエルの美しさや純粋さを知った者は、皆一様に羨ましがるだけだ。
引っ越したり、逃げ出したりしても、カナエルはどこまでも追跡してきて、かな子のもとへやってくる。
やがてノイローゼになったかな子は、カナエルと出会ったあの公園にふらふらとやってきた。
そして、公園の堀にとぽんと身を投げたのである。
水が冷たい。堀は底が深い。身体がどこまでも沈んでいき、息ができない。
かな子はそのまま、浮かんでこなかった。
カナエルは死神にかな子の魂を預けて、天国へと送ってもらった。
「やっとニンゲンの願いを叶え終わった~! 今回はなかなか長丁場で大変だったなあ。さて、次のニンゲンのもとへ向かわなくちゃ。願いを叶えてほしいニンゲンは、たくさんいるんだから」
天使は大きく伸びをしてから、空へと飛び立った。
次にカナエルが願いを叶える人間は、誰なのだろうか――。
〈了〉
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