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天にも昇る心地というのはこのことを言うのだろうか。私は今、最近知り合ったエリートでイケメン、しかも性格も穏やかで紳士的な、完璧な男性とドライブを楽しんでいる。
「突然誘ってごめん。驚いたかな?」
カーステレオの音を少し下げ、彼が気遣いながら話しかけてきた。
「いいえ! ちょっと驚いたけど、特に予定も無かったので、誘って貰えて嬉しかったです」
自分で言うのもなんだが、週末だと言うのに今夜も休日も予定が何もない、寂しい35歳間近の独身女性、それが私。
そんな私が人数合わせで参加させられた合コンに彼がいたのだ。彼も人数合わせで連れてこられたようだった。参加者の中で、私と彼だけがはちょっと年上で、その場ではちょっと浮いていて、二人だけで話していたら、連絡先を交換する流れになってしまった。それから、なんとなく連絡を取り合うようになったのだが、特に親しくしていたわけではなかった。
それが今日、彼は何の連絡もなく家の前で私の帰宅を待っていたのだ。それだけでも驚いたのだが、突然ドライブに誘われ、もうびっくり仰天してしまった。男性と二人でドライブなんて、何年ぶりだろう。私は完全に舞い上がってしまった。
「驚かせてごめん。でも、どうしても君に会いたかったんだ」
そんなことを言われるのも久しぶりで、顔に熱が集まっていく。
「いっ、いえ……でも、今度はスマホに連絡もらえると、嬉しいかな……なんて」
あぁ、久しぶりにドキドキしてしまう。私もまだ女だったってことね。嬉しさと恥ずかしさを感じ、ふふっと小さく笑った。
「どうかした?」
「いえっ!何も……」
一人浮かれて笑っていたなんて、恥ずかしくて言えない。気まずくて窓の外に目をやると、思いの外、灯りが少ないのに気付いた。
どんどんと灯りが減っていく外の様子に、不安が募っていく。
「あの、どこに行くんですか?」
私は堪らず彼に尋ねた。
「あぁ、ちょっと夜景が綺麗に見える秘密の場所があるんだ。キミに見せたくて」
「そうなんだ! 嬉しいっ!」
彼の返事に、安堵感からちょっと大きな声をあげた。
(なんだ。ただの考え過ぎだったわ)
安心して前方に目を向けると、彼から戸惑ったような声が聞こえた。
「他人の記憶を買えるって知ってる?」
「え? そんなこと──」
「俺の知り合いに、記憶を集めている男がいるんだ」
なんの冗談かと思い笑い飛ばそうとしたら、真剣な彼の声がそれを遮った。息を飲み、右隣に視線を移すと、そこには全く笑っていない横顔があった。
そして、彼は静かに“記憶を集める男“の話を始めた。
****
男は物心ついた時から全く感情が動くことがなかった。楽しいから笑う、悲しいから泣く、悔しいから怒る、そんな皆が当たり前のように出来ていることができない。そのため、幼い頃から変わった子と言われていた。
それでも周りを見て、こんな時は笑えばいい、こんな時は怒ればいいと学習し、何とかコミュニティに溶け込もうとした。幼い時はそれで良かったのだが、成長するにつれて人の感情や人間関係は複雑になっていき、周りを模倣するだけではどうにもならないことが増えてきた。次第に周囲は男に不審な目を向け、避けるようになっていく。
(人は人と関わらずに生きていくことはできない。このままでは、俺は社会的に死んでしまうな)
そう頭で理解しても、 “焦り“ も “怒り“ も “哀しみ“ も湧いてくることはなく、淡々と時を過ごすしか術はなかった。
そんな時に出会ったのが、人の記憶を売買しているとある団体だった。
最初、男は全く興味がなかったが、「一度、騙されたと思ってお試しください。損することは何もありませんので」と勧誘され、暇だったこともあり、一度だけ他人の記憶を体験することにした。
その時体験した記憶は、一番人気だと言う、初めての彼女の記憶だった。
なるほど、団体の職員が熱心に勧めていたのがわかった気がした。他人の感情を自身にコピーすることで、今までわからなかった感情を感じることができたのだ。
(俗に言う普通の人は、この“感情“というもので行動を決めているのか)
不思議な感覚だった。こんなモノに振り回されているのは不便だと思った反面、こんな簡単に行動を決められるのは簡単だなとも考えた。
どんな行動をすれば正解なのか、確固とした判断の指針がなかった男は、他人の記憶にそれを見出したのだ。
それから、男は他人の記憶を片っ端から集めはじめた。どんな些細なことでも、感情が入る物は何でも買い集めた。すると、次第に男の周りに人が集まるようになっていった。
その結果は、男に他人の記憶が集まれば集まるほど、自身は完璧になるのだと導き出させるのに十分であった。
男が記憶を集めるようになってしばらくしたある日、男の前に痩せた貧相な女が現れた。女は目尻や口元の皺から、そう若くはないということはわかったが、男はその女に全く心当たりがない。男は女を無視して通り過ぎようとすると、女がじっと男の顔を見つめながら口を開いた。
「あなた、他人の記憶を買い集めているのでしょう?」
少し強張った小さな声だったが、抑えきれない興奮からか語尾が僅かに上擦っている。
しかし男は動揺することなく、淡々と返事をした。
「何を言っているのか分かりませんが? そんな夢物語のようなこと、誰が信じるんですか?」
そんな男の態度に、女は一瞬ポカンとした後、顔に焦りの色が広がった。
「私、知ってるのよ! あんたが私の記憶を買ったこと! お金は戻すから返してちょうだい!」
女の声は先程よりも大きくなっているが、男は顔色一つ変えることはない。
「だから、何のことかさっぱりわからないのですが?」
男は再び素っ気ない返事をするが、女は引き下がろうとはしなかった。
「私の幼い頃の記憶だけでいいから、それだけでいいから返して…本当にお願いします」
縋るような目をし、頭を下げた女を、男は何の感情も浮かばない目で見つめた。
「いい加減にしてくれませんか? 知らないものは知らないですよ」
すると女は俯き両手を強く握りしめた。両方の拳が小刻みに震えている。
男は女が静かになったので、もういいだろうと立ち去ることにした。
「それでは、もう行きますので」
女に声を掛け踵を返した時、女が叫ぶような声をあげた。
「アンタなんて、他人の記憶の寄せ集めじゃない! 自分自身を持ってない、空っぽの人間よ!」
その言葉が男の耳に届いた瞬間、男の中の何かが燃え上がるような感情が湧き上がってきた。そして、体が勝手に動いた。いや、自分自身の感情によって体が動かされていた。
そこから先、男は自分がどんな行動をとったのか覚えていない。気がついたら女に馬乗りになり、全体重をかけて首を絞めていた。女はすでに動かなくなっており、男の腕には女に引っかかれた跡がミミズ腫れとなって、無数に浮かび上がっていた。
男は乱れた呼吸を整えながら、女の首を絞める手の力を緩めた。長い間かなりの力をかけていたのだろう。手が震え上手く開けない。
「あぁ……」
男の口から声が漏れる。
「なんて、なんて素晴らしいんだ……俺にもこんな強い感情があったなんて……」
この感情もこの記憶も、他人のものではない自分だけのもの。じわじわと自分の中の何かが満たされた気持ちになっていく。
(もっともっともっともっと、自分だけの記憶が欲しい!)
男の中に初めて強い欲望が芽生えた。
****
「えっと…………もしかして、その男はそれから殺人を繰り返すの? 何かのドラマ? 私、あんまりドラマって見ないから詳しくないんだよね」
暗い道を走る車の中で、重苦しくなっていく空気に耐えられず口を開いた。運転席の彼を見たが、彼は無言のまま。
(何でこんな暗い話してきたのかしら?)
最初の浮かれた気持ちはどこかへ消え、ただただ不信感が募っていく。
すると、彼がおもむろにハンドルをきり、林の中へと入っていった。こんな高い木々に囲まれたところ、絶対に夜景なんて見えない。
「ちょっ……どこに行くんですか!?」
非難めいた声を上げたが、彼は眉一つ動かさない。
「どこって、天国かもしれないし、地獄かもしれないね」
「は!?」
思いもよらぬ言葉に困惑し、思考が追いつかない。男はそんな私の様子を気にすることなく、言葉を続けた。
「今から君に俺の感情を動かして貰おうと思ってね」
「……何それ?」
「さっきの男の話、聞いてただろ。上手くできれば殺すかもしれないけど、できなくても殺すから」
「…………は?」
「俺さ、自分だけの記憶を集めることにしたんだよ」
男は顔色を一切変えないまま、車を一軒の山小屋の前に止めた。
私はここから無事に帰れるのだろうか?
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