épisode 2  Mer profonde brûlante

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épisode 2  Mer profonde brûlante

西の空の端は(あかね)色に(にじ)みはじめている。張り裂けんばかりに膨らんだお気に入りのモスグリーンのボストンバッグを抱えて、ヘリポートへ繋がる階段を一気に駆け上がる。(まばゆ)い西日に(さえぎ)られて、階段の出口に立っている人影に気付いた時にはすでに遅かった。強く誰かの身体に衝突した莉絃は、ボストンバッグを抱えた姿勢のまま体当たりした人物に抱き締められるような体勢になっていた。 「……っ、大丈夫?」  頭上からわずかに笑いを含んだ涼やかな声が降ってきて、顔を上げる前に莉絃はぶつかった人物が誰か悟った。二度も失態を犯してしまい途方に暮れた顔を上げた先では、やはり先日アカデミーで本を抱えて衝突した、あの黒髪の青年が気だるげな表情でこちらを見つめている。謝ろうと唇を開いた瞬間、耳元に男の唇が寄せられ心拍数が跳ね上がる。 「莉絃君……だよね?今回治療のパートナーをする(えんじゅ)っていうの。宜しくね」  長い腕に力を込められ、ふたりの身体がより密着する。この前と同じように、触れ合う部分から電流のような一瞬の衝撃を感じ、莉絃の腕は(すが)るように槐の背を(つか)んだ。  深海の如く濃い青色の瞳がこちらを覗き込んでいる。形の整った唇に浮かべた微笑は柔らかで優しいのに、絶対に抗えぬ強力なαの持つ引力に支配されてしまうような恐怖を感じ、莉絃は密着した身体を引き離そうとするが、身じろぎすらできない。  彼の顔は莉絃の耳の近くに寄せられたまま、かすかな吐息だけが聞こえる。耳の後ろの匂いを()がれているかもしれないと気付き、緊張で心臓が脈打つ音すら聞こえるような気がした。  遠くから槐を呼ぶ治療チームのスタッフの声がして、ようやく槐は抱き締めていた腕をほどいた。医師らに(うなが)されてヘリポートへ向かう最中も、密着していた時の体温を思い出して莉絃の動悸(どうき)はなかなか治まらなかった。 「じゃあ、アカデミーに入る前は施設に?」 「うん……でもそこには当時Ωは俺しかいなかったし、みんな優しくしてくれた。だから、寂しくはなかったかな」 「いい環境だったんだ」 「でも、首都の施設とアカデミーの外にはまだ出たことなくて……泳げない」  ヘリが離陸したあと、自由な会話が許された莉絃と槐は後部座席に身を寄せ合って話をしていた。莉絃にとっては政府機関や病院のスタッフ以外に、Ωであることをカミングアウトできたのは初めてのことだったので、自然と話したかった言葉が(あふ)れてくる。最初あれほど恐怖を感じた槐の存在も、話してみればおっとりとした青年といった風情で、優しく話を聞いてくれる。 「アカデミーで本抱えてた莉絃とぶつかったとき、なんだろう……すごく変わってるなって感じた。見た目とか言動とかじゃなくて、雰囲気が」 「えっ⁉」 「ああ、Ωだって思ったわけじゃないよ。俺が小さいとき世話になった施設の理事がΩ性の人だったの。だからフェロモンの匂いとかは、なんとなく知ってる」  自分以外のΩと遭遇したことがあるという話を聞いて、莉絃は思わず身を乗り出した。 「すごいね……! フェロモンってどんな匂いなの?」 「例えるの難しいけど、そんな神がかったようなものでないよ。それより……」  槐が苦笑して言葉を続けようとしたとき、ヘリの助手席から治療スタッフが声をかけた。 「そろそろ降下します、窓から景色が見えますよ」  雲の切れ間からエメラルドグリーンの海面が太陽の光を反射して輝いている。その中に森に囲まれた人工島が浮かんでいた。 「アカデミー所有の島です。人工島ですが、町ひとつ分くらいの面積があります。特殊な環境下にしか生息しない植物の保護区にもなっています」  ヘリの降下に合わせて、島の景観が眼下(がんか)に広がる。明るい色の屋根の建物が連なる商業施設やドーム型の巨大な植物園らしきものもある。莉絃はその景観に心()かれ、出発前あれほど心を占めていた治療に対する不安はすっかり治まり、期待に胸を膨らませた。  ◇◇◇  大きな夕日が海面に沈みかけ、空はオレンジ色と淡い紫の美しいグラデーションに染まっている。莉絃と槐は水上ヴィラのコテージの中で、通信で送られてきた治療の説明動画を確認した後、支給されたワンプレートディナ-をつついていた。 「なんか、変な感じだね……こういうの」  病院で説明されたとおり、性行為についてはっきりと示された説明動画を見て、莉絃は居たたまれない気持ちになった。付け合わせの野菜とドレッシングを混ぜる動作を繰り返し、気持ちを落ち着かせようと音を立てずにひっそりと深呼吸をする。 「そう?」  テーブル越しの槐はヘリの中で話した時と変わらず平然としている。くだらないプライドが邪魔をして、莉絃は自分が性行為について何も経験がないことについて言えずにいた。 「莉絃が治るかもしれないチャンスなんでしょ? 俺は関わることができて嬉しい」  率直に言われて、莉絃はっと顔を上げた。長い間、不完全な存在だったことが自分の一番のコンプレックスだった――である無力感――それを払拭(ふっしょく)すべく、アカデミーでも人口の減少を止めるための研究を植物をモデルに必死に進めていた。でも。もしこの治療がうまくいけば、希少な現代のΩとして自分を育ててくれた政府の機関や病院、アカデミーの人々の役に立つことができるに違いない。  フォークを握りなおした莉絃は、プレートの上に残っていた野菜を口の中へかきこむと、シャワールームへ向かった。  莉絃が雨が降り出したことに気が付かなかったのは、シャワーの音にかき消されて雨音が聞こえなかったせいだった。シャワールームから出ると、コテージの大きな窓を閉めた槐が、ガラス窓を激しく叩く雨粒が流れ落ちていく様をじっと見ていた。 「えっ、突然だね、雨」 「いきなり降ってきたね。結構激しいから注意したほうがいいかも」  槐はリビングに佇む莉絃に近づいて、まだ濡れた部分の残る髪をバスタオルで()いた。長い睫毛に細かな水滴が付いているのを見て、槐は気持ちの高揚(こうよう)を覚えた。 「注意って……」 「浸水とか?」  激しさを増す雨音と、槐の言葉を聞いて莉絃が青ざめる。 「ふふ、ごめん、ここの構造上浸水はそこまで心配ないかも」 「揶揄(からか)ったの? やめてよ」  アーモンド型の瞳をつり上げて抗議する莉絃の髪を拭く手を止めて、槐はテーブルにバスタオルを置いた。 「ごめん」  そのまま腕を伸ばして、莉絃が(まと)っていたバスローブの腰紐をするりと外した。前が露わになったのを慌てて隠そうとした細い両腕を、槐の大きな手が掴んだ。
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