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épisode 1 Thé au jasmin qui sent bon
ジャスミンの葉がゆっくりと開く――そろそろ頃合いだ。莉絃はガラスのポットを傾け、愛用の白いマグカップに薄緑色の温かな液体を注いだ。立ち昇る湯気が彼の華奢な頤や、すっと通った鼻筋、大きなアーモンド型の瞳を縁取る長い睫毛を覆って、ごく細かい水滴を残して消えた。
鼻腔から抜ける、爽やかでまろみのある香りを楽しんだ後、莉絃は視線を机の上から窓の外へ向ける。アカデミーの研究室から見える中庭の景色は夏の終わりを感じさせるもので、茂った広葉樹の葉の端が少しだけ黄色に染まっているのを見ては、研究一辺倒で終わってしまった夏を思い出して桜色の唇に苦笑を浮かべた。
世界中でΩ性の人口減少が始まってから、十数年が過ぎようとしている。様々な研究者が血眼になってその原因と解決策を追ってはいるが、莉絃が物心つく頃にはすでに身近にΩという存在を感じない社会となっていた。
魅惑的なフェロモン、周期的に訪れるヒート、人類の繁栄を潤滑にさせるための希少な存在……学術的な知識だけを授業で習ったが、周囲にΩが居ない現代の環境で、特に莉絃たちのような学生の世代にとっては、どこかその存在は空想上の生き物の如く実感を友わないものだった。
首都に設立されたこのアカデミーは、このΩ減少問題に取り組むべく設立された研究機関である。莉絃たちの通う学生部の他に多種の研究所や併設する大規模な病院まである。
大きな硝子張りの窓から強い西日が差して、莉絃はマグカップの中のジャスミン茶を流し込むと、ロッカーから編み目の粗い黒のニットを取り出して羽織った。部屋の隅にある姿見には、西日に溶けてしまいそうに輝くプラチナブロンドの髪と菫色の大きな瞳を持つ、華奢な骨格の美しい青年が映る。でも、莉絃は外見のことで褒められることに対して怯えの感情がある。黒のニット帽を深く被り、机の上に積まれた本を数冊抱えて研究所のドアを開いた。
行きつけの洋風素材のデリカテッセンが閉まるまであと少し。楡の木の連なる図書館通りを本を抱えて走る莉絃は、左側の視界が塞がっていたために脇道から姿を現した長身の男に勢いよくぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさ……」
尻もちをついた姿勢で出かけた言葉が止まってしまったのは、男と衝突した瞬間、身体にビリッと電流が走ったような感覚があったからだ。
「大丈夫?」
長身の男が手を差し伸べる。涼やかで艶のある声。黒い髪は西日を浴びて琥珀色に輝く。垂れ気味の切れ長な瞳に、美しい鼻梁。まるで女性のような美貌を感じるはずなのに、長い首や骨ばった大きな手、何より気だるげに立つその雰囲気が彼を雄々しく感じさせていた。それに、この圧倒される感覚に莉絃は確信を覚えた――彼がαだということに。
差し出された手を取って立ち上がり、周囲に散らばった本を集めている最中も、莉絃は男からの不躾なほどまっすぐに自分へ向けられる視線に始終頭が混乱していた……まさか気づかれてしまったのだろうか。でも、こうした日常の触れ合いの中で莉絃がずっと隠している秘密に気づいた者などひとりもいない……大丈夫。自身にそう言い聞かせ、本を拾い終わった後に努めて明るく顔を上げた。
「ありがとう、不注意でごめんなさい」
男とまともに視線がぶつかる。深海を思わせる濃い青を湛える瞳に射抜かれたように、体が硬直してしまう。首もとに伸びてきた長い指がニットに付いていた落ち葉を摘まんだ。視線を外さない男と対峙する緊張感から逃れるように、莉絃は一礼して足早にその場から立ち去った。おそらく、もう今日はデリカテッセンに間に合わない、だが彼はそのことを忘れてしまうほど、男の視線に危機感と焦燥を感じていた。
◇◇◇
「……それはないですね、百パーセント気付かれません」
月に一度の診療の日、莉絃の担当医である男性は穏やかに微笑んだ。アカデミーに併設された病院の一室、白とミントブルーで構成された診療室は清潔感に満ちていて、小さな窓からは空の青が覗く。
「確かにあなたの性別はΩです。しかし対外的な身体的特徴としてはΩの要素は限りなく薄い――フェロモンの放出がなく、ヒートも発生しない」
莉絃は両親の顔を知らない。彼は生まれた際に受ける遺伝子判定でΩであることが判明し、両親の手を離れて政府の養育施設に入った。これは希少な存在となったΩを守り、最適な番を見つけるまでサポートする政府の手厚い保護策である。
しかし、適齢期になっても莉絃にヒートが訪れることはなかった。当然身体からフェロモンも放出されない。施設の病院で治療を受けていたものの効果は上がらず、アカデミー入学を機にこの専門病院でΩとしての機能を回復する治療を始めて一年が経とうとしていた。
「先月行った新薬のテストも効果は出ていません……莉絃さん、私たちは治療を次のフェーズに進めようと思っています」
「次のフェーズ?」
「特に強いα性のたんぱく質を摂取することで、Ωホルモンを刺激します」
医師は言いよどむことなく、左手で眼鏡の位置を正すと莉絃をまっすぐに見つめた。
「つまり、特定のαの方との交合を行うということです」
◇◇◇
「はあ……」
莉絃の小さなため息は夏の終わりの青空に吸い込まれた。アカデミーの中庭のベンチで昼食をとっているが、今日は大好物のはずのサーモンフライとピクルスのタルタルソースサンドウィッチの味も感じない。
「ご飯食べてるときが一番幸せそうな莉絃が珍しいね」
「あ、燦菜」
食堂で販売されている人気のフレンチトーストの紙袋を持った細身の青年が莉絃の顔を覗き込みながら、そっとベンチに腰掛けた。光の加減によっては黒にも見える紫色の髪は肩で綺麗に切り揃えられており、優しげに細められた瞳は左右でわずかに色味が違う。
アカデミーの友人の中でも特に燦菜とはよく中庭でともに昼食をとる仲だ。彼はαとβの特質を半分ずつ持つ特異な体質で、莉絃と同じように病院で治療を受けている。
「交合って……性的に交わるということだよね」
どこか真面目な面持ちの燦菜の隣で、莉絃はサンドウィッチの包装紙を畳んだり開いたりを繰り返している。
「そんなことある? 治療で、だよ?」
「僕は童貞だから、正直興味あるかも」
真摯な瞳で見つめられ、莉絃は思わずぎょっとして燦菜と向き合った。
「自慢じゃないけど……俺だって童貞だから!」
しかも、莉絃は二十歳になる今まであまり強い性衝動を覚えずにここまで来てしまった。自慰もろくにしたことがないのに、他人と交合なんてできるのだろうか。
「不安だよ、いろいろと……」
桜色の唇を噛んだ莉絃の頭を、燦菜のか細い手がそっと撫でた。ベンチに降りそそぐ木漏れ日が、莉絃の物憂げな横顔に静かに落ちるのをすこし眩しく感じ、燦菜は目を細めた。
燦菜にとって莉絃はアカデミーで初めてできた友人だった。植物学科にすごい美人がいると耳にしていたので、華やかな日々を過ごしている人種であろうという勝手な先入観があった。だから併設の病院の待合室で話しかけられたときもこんな風に仲良くなるとは想像していなかった。実際に友人として付き合う莉絃は傲慢でも高飛車でもなく、明るく面倒見がよくて努力家だけれど、ちょっと抜けた所もある優しい青年だった。食べることが大好きな割に、食べる早さがゆっくりでいつも昼食を先に食べ終えるのは燦菜のほうだ。
多くの先輩や後輩、ひいては教授まで彼に告白する者は大勢いたが、莉絃は研究に専念したいの一点張りで断っている。いまだ恋愛についての感情を理解できずにいる燦菜はいつしか彼に対して同志のような気持ちが芽生えていて、治療とはいえ体を重ねることになった相手が莉絃を傷つけはしないか心配だった。
「肉体関係が、莉絃の精神に何か影響を及ぼしたらどうしよう」
生々しい言葉に対して肯定も否定もできず、莉絃は燦菜の滑らかな頬をつまんで変なこと言うな、と呟いたものの内心穏やかではなかった。
◇◇◇
――ジャスミンの葉はとうに開いている。なのに莉絃はそれに気づかず、ポットに触れぬままぼうっと研究室で窓の外を眺めている。不意に机の上の携帯端末から着信の音が流れ、端末を手に取ってディスプレイに指を滑らせ通話を開始した。
「失礼します。アカデミー付属病院の特化治療チームの者です。莉絃さんの端末で宜しかったでしょうか?」
「はい」
「以前担当医からお知らせさせて頂きました治療に関しまして、ご案内させて頂きます。急で申し訳ありませんが、明日の16時に病院の中央棟屋上にありますヘリポートにお越しください。その際、三泊分の薬と衣類などの日用品を持参してください。持ち物の詳細についてはメールに記して送信いたします。それでは、特に問題なければこれで失礼いたします」
「あっ」
莉絃が何か言いだすより先に、端末の奥から通話が終了する音が鳴った。やはり、どこか遠くの人里離れた研究所に連れて行かれてしまうのだろうか。病院の医師たちには数えきれないほど世話になったし、何より未完成なΩとして生きてきた未熟な自分を変えられるかもしれない絶好のチャンスであることには間違いない。そう言い聞かせて、胸の底から噴き出してしまいそうな恐怖心に蓋をした。
緊張に速まる鼓動を落ち着かせたくて、ジャスミン茶をマグカップに注ぐ。でも、口に含んだそれは驚くほど苦かった。時間が経って葉が開ききったティーポットの中の葉を見て、莉絃は小さなため息をついた。
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