魔法の財布

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 公園の藤棚では丸々としたクマンバチが羽音を立てながら蜜を集めている。芝生の上ではお弁当を広げている家族連れがいる。音楽を聴きながらジョギングを楽しむ男性。自転車で走り抜けていく小学生。休日の昼下がりの公園は長閑で温かいのにどこか寂し気なところがある。  老人はベンチに腰掛けると財布を出した。子どもの頃から使っている青色の財布だ。子どもの頃は古びた財布だと思っていたのに今では自分の方が古びてしまった。随分と長い時間をこの財布と共に歩んできたと改めて感じていた。 「おや、気がつかなかったよ。いつから座っているのかな?」  老人は独り言のように呟いた。  少年には聞こえていないのか、前を見ているだけだった。  老人は少年の横顔に、どこか見覚えがあるような気がしたが遠くの記憶のような気もした。  老人は芝生で遊ぶ園児たちの方に目を向けると、蘇って来た財布との出会いを少年に聞かせるともなく話を始めた。 「面白い話をしてあげよう。不思議と言った方が良いかもしれんが・・・  あの時も今日と同じような日だった。それぞれに休日の昼下がりを楽しんでいた。芝生の上ではお弁当を広げた家族連れが美味しそうに食べている。綿あめを食べているのにお父さんの手は握ったまま。自分の周りには幸せが沢山あるのに自分の所にはない。あの時はお腹空いていたよ。自分の周りには自分の欲しいものがある。見えるのに手の届かない場所に。そんな時だったよ。隣に老人が座っていた。今みたいにね。  その老人が言った。 『坊やも綿あめが食べたいのかい?』  顔を覗き込み、試すような目つきだったよ。 『綿あめじゃないよ』  今思うと口元が笑った様にみえた。 『では、何を食べたいのかい?』  覗き込む老人の顔が怖かったけど空腹の方が勝っていた。 『ご飯が食べたい』 『ご飯が食べたいか。これは失礼した。では、これを上げよう』  古びた青い財布だった。手渡されてしまった。戸惑う私など気にせず老人は言った。 『この財布は魔法の財布でな。前の日に幾ら使っても幾ら残っていても朝には一万円が入っている。不思議だろ?』  不思議よりもご飯が食べれる。毎日お腹いっぱいにご飯が食べれる。おとぎ話のようなチャンスが手の中にある。心が躍ったよ。 『ホントに貰って良いの?』  老人は満足そうに頷いた。 『勿論だとも。一つだけ注意してほしい。財布の秘密を他の人に話してはいけないよ。話したら魂を貰うからね。簡単だろ? 沈黙は金だ。一万円の対価だと考えてもいい』  手には古びた青い財布がある。これでご飯を食べられる。でも・・・・  老人はいなくなっていた。聞く事も返す事も出来なくなってしまった。  結局、あの時に買ったのはアンパン一個だった。もっと食べたかったけど我慢した。沢山買ったらお店の人に疑われると思った。何よりも家の人にバレたら財布を取り上げられてしまう。老人に魂を取られるより厭だった。  その後も我慢だった。級友が新しい筆箱を自慢しても、新学期に自分だけ汚い体操服でも。ただ、自分はもっと良いのが買えると思うと我慢が出来た。こんな事で家の人にバレたくないと思うと我慢出来た。我慢ばかりなのに気持ちは楽だった。  中学生になる頃には魔法の財布の事も社会の事も分かるようになった。使わなくても中身を抜いておけば翌朝には一万円が入っていた。これでお金を貯める事が出来た。バイトをすればお金を持っていても疑われない。バイト代は半分以上家の人に取り上げられたけど財布があるから我慢できた。  財布のお陰で高校に行けた。大学にも行けた。嬉しかったよ。明日に希望が持てる毎日が只々嬉しかった。  就職が決まった時に魔法の財布を誰かに渡そうと思った。老人が譲ってくれたように誰かに希望を渡したかった。でも、それは出来なかった。説明しないで渡したら、きっと周りに自慢して直ぐに魂を取られてしまうだろうと。だからと言って説明をしたら私の魂を取られてしまう。仮に私の魂が取られなくても、相手は約束を守れるだろうか? そう考えて気がついた。私が魔法の財布になればいい。病弱の人を鍛えても身体が強くならないように心の弱い人に自制心を求めてもムリだからだ。  貯めたお金で起業した。今までになく働いたよ。朝から晩まで休みなく働いたよ。少しずつ会社が大きくなった。賛同者も増えていった。大変だったけど嬉しかったよ。沢山の人の役に立った訳ではないけど、魔法の財布より多くの人を救えたと自負していたから。  でも、秘密を抱えたまま生きて行くのは大変だ。『話してはいけない』は呪縛だった。誰かに聞かれた事はないのに、ずっと周りを騙している罪悪感があった。正直に言えばあの頃より大変だった。  結局、人間は弱い。隠し通すつもりでいても、あの時と同じ舞台が設定されると口が動いてしまうものだ」  少年は老人をじっと見た。 「さて、私の話はこれでお終いだ。財布は返すよ、試しの天使よ。約束通り私の魂を持って行くがいい」  少年が立ち上がると、十二の翼を持つ美しい天使の姿に変わった。 「お前の勝ちだ。誰にも話さず人生を終えるからな」   了
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