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母は天才だった。
母が石を拾い上げれば、それはダイヤモンドの輝きを放ち。
母が絵筆をとれば、たちまち歴史に残る傑作を生みだし。
母が言葉を発すれば、人々は神の言葉を聞いたかのように陶酔して熱狂した。
母には二つの名前があった。
一つは有名ブランド【MIKASA】の創始者であり、世界的にも高名なデザイナーである美司瑠那。
もう一つの名前は、本名である三笠 翔子。
私がその母の死を知ったのは、密葬が終了した一ヶ月後であり、納骨を数日に控えた日曜日――指定の場所へ来るようにと、お願いという名の命令が下った。
どうやら、遺産を分配する話し合いをしたいらしい。
遺産か。
と、私は今年で5歳になる、愛しい我が子の手を引いて家路を歩く。
カラスの鳴き声を聞きながら、のんびりと夕陽の熱を肌で感じて、道行く家々から立ち上る夕飯の優しい香りと、つなぐ手の小ささと柔らかさに、胸の奥が暖かく満たされていくのを感じた。
「でね! りりちゃんねぇ! ようちえんで、えっ、ほめられたの!」
「うわ、よかったね。どんな絵なのかな? 見てみたいな」
――美司 瑠那の血を引いているのに、この程度のレベルですか。
――調子に乗るなよ。お前が褒められているのは、お前の母親がすごいからだ。
――なるほど、あなたみたいな凡俗な人間は【MIKASA】ブランドに関わるだけで大きな損害です。
過去からの声をねじ伏せて、私は意識を集中し、無邪気に今日のことを話す我が子の笑顔を必死に守る。
「せんせ、つぎのすいようびに、おうちにもっていっていいって!」
「そうなんだ。たのしみだな~、かざる場所、どこにしよう」
辛い過去が役に立つのはこの時だ。
私は、幼い頃の自分にかけてもらいたかった言葉を具体化し、欲しかった優しさを思い出し、受けた痛みが今もなお、痛みを訴えていることを強く重く受け止める――それは、まるで呪いのようであり、その呪いを断ち切るのは、他ならぬ自分自身。
脳内の暗闇で、ひとり泣いている幼い自分をそっと抱きしめながら、母親になった私は、娘の理々が健やかに育つことを願ってやまない。
「べらんだのちかくがいい! とりさんに、りりのえ、みせるの!」
「あらあら、そうなの。もしかしたら、ちょうちょさんも見に来るかもしれないわね」
「ちょうちょっ! ちょうちょ、くる?」
「えぇ、くるわよ。理々の絵は世界一だもの!」
この子のためなら、私はもっと強くなろう。
もっともっと。
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