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「あ、ママ、これ……」
キッチンで夕飯後の洗い物をしていると、長女の環奈が悪巧みを誤魔化すようなニヤニヤ笑いを浮かべながら、A4サイズの大きな封筒を差し出してきた。隣のリビングの方からは次女の夏帆がお気に入りのアニメ映画のDVDを観ている音が聞こえてくる。
濡れた手をタオルで拭いて、私は娘がカウンターの上に置いていったものを手に取った。そして、声にならない叫びをあげた。
「……はあぁ?!」
怒られるのが分かっているらしく、環奈はリビングのソファーへ駆け寄って、それに隠れながらもこちらの様子を伺っている。私はワナワナと震える手で封筒にプリントされている印刷を確認していく。
「ちょっ、これ、明日提出になってるじゃないっ! ハァ?! どうして貰った日に出さないのっ?!」
娘が悪びれずヘラヘラと笑いながら持ってきたのは、絵の具セットの申し込み書。封筒の表面に商品カタログが印刷されていて、その中から希望のセットを選んで商品代金を入れて提出するという、かなり合理的なやつだ。
娘は自分が欲しいというリボン柄のキラキラした鞄に入ったセットに、ちゃっかり先に丸を付けていた。定価は3880円なり。――否、よく見ると団体割引で10%OFFらしく、販売価格は3492円になっている。
つまり、絵の具セットを買うために、3492円をお釣り無しのちょうどで用意しなければならない。
そして、今一番の問題はその提出日が明日ということだ。学校の提出物は大抵、数日の猶予があることが多いけれど、お金が絡むから期日に余裕は設けられていない。つまり、絶対に明日しか受け付けて貰えない。3492円という中途半端なキリの悪い金額を入れて、必ず月曜の朝に子供へ持たせなければならない。
金曜日に貰ったはずのこれを、日曜の夜8時過ぎに出してきた娘に、湧き上がり始める怒り。
「細かいお金、あったっけ……」
まともに金曜に渡されていれば、3日間で余裕を持ってお金を用意することができるのに。まさかの前日の夜。何度言っても、提出物を貰ったその日に出さない娘。2年生になってからは学校の用意を本人に任せきりにしていたのが悪いのか。
慌てて、リビングの隅に置いていた鞄から長財布を取り出して、中身を確認する。
「うわっ、万札しかないじゃん……」
週末前に銀行に行ったから、普段よりも多めに入っていた財布の中を覗き込み、札入れを見てみればピンピンの新札が3枚並んでいた。全て万札だった。普段なら3万円も財布の中に入っていればウハウハでご機嫌になるところだが、今日に限っては愕然と肩を落としてしまう。
続いて小銭入れのファスナーを開けてみると、500円玉と100円玉がコロンと2枚だけ。財布を持った時点で意外と軽くて、細かいのが全然ないことは予想はできていたけれど。
「ハァ……ちょっとコンビニで崩してくるわ」
「ごめんねー」
ソファーの向こうから、反省の色が全く見えない声が聞こえてきたが、返事する気にもならない。とにかく今日中に小銭を集めなければならないのだ。
――ま、ついでに明日の朝食のパンでも買ってくればいっか。
冷蔵庫の中を思い返し、牛乳の残りも少なかったことに気付くと、怒りは少しだけ和らいだ。
自宅マンションから徒歩10分。24時間営業のコンビニは大学生っぽい男の子がレジにいるだけで、客は誰も入っていなかった。店の前の灰皿には喫煙中の男性が一人、けだるげに佇んでいた。
私はカゴに1リットルの牛乳パックを入れた後、娘達が明日の朝に食べる用の菓子パンを選んだ。パンも牛乳もスーパーで買った方が安いのは分かっているが、今日は仕方がない。ここでお金を崩すのが目的なのだから。
レジでの会計は489円。最初、一万円札を出さずに500円玉で払いかけてハッとする。何の為に夜のコンビニに来たのか、すっかり忘れかけていた。危ない危ない。慌てて万札をトレーの上に置いた。
「9511円のお返しです。レシートはご入用ですか?」
店員の問いに、「お願いします」と答えてレシートを受け取る。家計簿は付けていないけれど、とりあえずレシートは毎回貰うようにはしている。
購入した商品をエコバッグに突っ込みながら、千円札は確保できたけれど、500円玉が2枚に増えただけで、他の小銭も全然足りないことに愕然とする。もう一度何かを買い直して、さらにお金を細かくするしかない……。
レジを離れ、もう一度店内を見回しながら、プライベートブランドの麦茶を一本だけ持って再びレジ前に並んだ。店内をうろうろしている間に来た他の客がホカホカの唐揚げを受け取っているのを、何とはなしに眺める。
近くの駅に電車が到着する時刻だったんだろうか、店内には一気に客が増えていた。
――これが120円だから、お釣りは880円貰えるし、とすると後必要な小銭は……?
頭の中で、小銭入れの中身を思い浮かべてみる。足りなかった小銭は392円分。さっき10円と1円を1枚ずつ貰ったから、残りは381円分。ということはつまり……。
「880円のお返しです。レシートはご入用ですか?」
買う予定の無かったはずの麦茶のペットボトルをエコバッグに放り込み、小銭がジャラジャラと鳴る財布を手にして、私はハァと溜め息を吐く。千円札も100円玉も10円玉も確保できた。さらに、今回は集めていない500円玉は3枚に増えた。
でも、必要な小銭がまだ1円分足りないのだ。
1円を笑うものは1円に泣く。そう、今まさに私は1円に泣かされている。
――あと、1円……。あと、1円が足りない……。
レジカウンターの上に置いてある募金箱の中に、これみよがしに大量に入っている1円へ恨めし気な視線を送る。目の前にこんなに沢山あるのが嫌味に感じる。
そして私はもう一度、店内を徘徊してお釣りで確実に1円玉が貰える駄菓子を手に、レジに並び直した。
客が増えたのにレジにいる店員しかいないのか、会計待ちの列は随分と伸びていた。パンの棚に隠れていてよく見えなかったが、レジの方で客が怒鳴っている声が聞こえてくる。
「さっき、弁当は温めてくれって言ったよな? ちゃんと聞いてたか、おい? 温めますかって聞いて来た時、俺は『ああ』って言ったよな? なのに、何しれっと冷たいまま渡してくんだよ」
「す、すみません、首を横に振られたように見えて……すぐ温めます」
「あ? 俺、首なんか振ってねえし。急いでんだよ、こっちは」
『ああ』しか言わずに微妙な首の動きした奴が悪いと心の中で指摘しつつ、私は店員の男の子に同情する。『ああ』だけで全てが通じるのは熟年の夫婦くらいだろう。いい大人が『お願いします』くらい言えないのかと、応戦したくなる。
弁当が温め終わったのか、レジの列が一歩前に進んだ。さっきの件で動揺しているのか、店員の男の子がレジの中でアタフタしているのが見えた。最初に用意したビニール袋では入りきらなかったらしく、サイズの大きい袋に入れ直したりと見ているこちらがハラハラしてくる。
前の客の番になったから、私はバッグから財布を取り出して並んで待っていた。男性客が手に持っていたカゴをカウンターの上に置いた時、横から割り込んで来た女性客が店員に向かって話し掛ける。女性の顔色は見るからに真っ青で、私も何事かとそちらへ注目した。
「あの、トイレットペーパーが切れてるみたいなんですけど……」
「あ、えっと……」
「急いでるんで、お願いしますっ」
切羽詰まった女性の声に、店員の男の子は慌てて「少しお待ちください」とレジ前の客に向かって言うと、カウンターの中から飛び出した。店の奥にあるお手洗いに向かった彼は、予備のペーパーを補充してくると、すぐにカウンターの中へ戻って来た。別に広い店でもないけれど、全力疾走したんだろうか、少し息が乱れている。
あと1円を作るために並んでいるが、なかなか思うように進まない。
気付けば私の後ろにも列が伸びていた。小さな駄菓子一つだけ持って並ぶ中年女のことを、後ろの若い女性が不審そうに見てくる。どうも、チラチラと私が肩にかけているエコバッグの中を気にしているようだった。
――え、もしかして、エコバッグ万引きを疑われてる……?!
カムフラージュのために安い駄菓子を買おうとしている、そう思われてやしないか。否、毎回ちゃんとレシートは貰ってるから、何か言われてもちゃんと清算済みだと証明はできるのだけれど……。
後ろの女のことを気にしてないフリして、私は数十円の駄菓子を買うことでようやく目的の小銭を全て集め終えた。
同じコンビニで連続3回も会計をしたのは初めてだ。店員からすれば、かなりの不審客だっただろう。当分、あの店には行きたくないなと思いつつ、私は自宅へと続く夜道をとぼとぼと歩いた。
「……ただいま」
鍵を開けて家の中へ入ると、玄関には夫の革靴が並んでいた。休日出勤でこんな遅くまで大変だなと心の中で労いつつ、リビングの扉を開く。怒られるのが分かっているからか、娘達の姿はない。ソファーテーブルで夕飯のハンバーグを肴に、一人で晩酌中の夫が振り向いて言った。
「コンビニに行ってたんだって?」
「そうなのよ、環奈が絵の具セットの申し込み書をさっき出してきたから……。小銭を集めるのに、3回もレジに並んできた」
えー、そうなの? と言いながら、夫は横に置いていた自分のビジネスバッグから財布を取り出し、中の小銭を確認する。
「あー、おれも細かいのは13円しか無いわ」
「13円……」
彼に連絡をしていれば、レジに並ぶ回数が1回減らせたのにと、私は諦めの混じる薄笑いを浮かべた。エコバッグの底に、買う必要が無かった駄菓子が転がっていた。
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