0人が本棚に入れています
本棚に追加
エレベーターを降りると、フロアに敷き詰められた絨毯の独特な匂いが鼻をつく。
昔よく遊びに来ていた懐かしい部屋へと入る。鍵はかかっていなかった。
寝室へ向かうと、上向きに横たわっている叔母の傍で、叔父は目頭を抑えていた。そういえば叔父が泣いているところを初めて見たなとふと思う。今はそんなことどうでもいいはずなのに、なんだか叔母が亡くなったという実感が沸かず、意味もなく意識を彷徨わせる。
そうか。生前はウィッグをかぶっていたのであった。叔母の頭には赤子のような産毛しか生えていない。肌は水分を失っており、口は半開きになっていて、一ヶ月ほど前に話した時とは変わり果てた姿となっていた。私は叔母を直視できなくなり、視線を宙にやる。
またふと思う。死んでいる人間を見たのはこれで3回目だ。
この家に来るまでの間ずっと、おそらくそうなんだろうなと思い続けていたが、やはり涙は流れなかった。なぜだろうと考え始めると、罪悪感に苛まれそうで、私は考えることを放棄した。
***
私は幾度となく、叔母夫婦にお世話になっていた。
幼いころから、頻繁に外食や旅行へ連れて行ってもらったり、誕生日祝いから学費まであらゆる面倒を見てもらった気がする。とにかく随分と可愛がってもらった。
この2人がいなければ、私が20年ほどの人生を通して、何不自由なく暮らすことなどできなかったであろう。私の両親にそこまでの収入も資産もなかったのに、一度も貧乏だなと感じなかった理由は、きっとこのことに集約されている。
私はこの事実を確認する度に、ずしりと心が重く、苦しくなる。
生前叔母はガンを患っていた。
叔母は自分の命がそう長くないと知ってから、より一層行動力が増したように思える。自分の中で死ぬまでに何をすべきかを徹底的に洗い出し、まるで立つ鳥跡を濁さずを体現するかのようであった。その他者に迷惑をかけまいとする責任感の強さ、そして自分がいつ亡くなるか分からないという心配から来る行動は、まさしく叔母の生き方そのものに感じた。
死期が迫った叔母から、私は1つ頼まれたことがあった。それは叔母のエンディングノートを完成させること。知人への叔母に関するインタビュー記事をまとめ、それを最後にノートに付け加える。私は生前の叔母の思い出を集めることになったのだ。
幼いころから叔母に関わってきて、最初で最後のわがままである。
大学は夏休みで、時間にはかなり余裕があり、私はこの叔母からの依頼を順調に進めていた。
叔母が指定した人物へインタビューし、それをある程度読み物として耐えうるよう編集していく。
叔母曰く、自分自身でインタビューするなんて気恥ずかしいし、何しろ自分がインタビューしては相手の本音を引き出すことはできないとのことである。
特段具体的な質問が用意されているわけではなく、叔母との思い出、叔母が一体どんな人に見えていたのかについて、なんとなく聞いてくれればそれで良いと、叔母からの指示は漠然としたものであった。
叔母がリストアップした重要人物にアポイントメントをとっては、先方の職場近くの喫茶店などに行き、私はインタビューを行った。エンディングノートと切り出してから話をすれば、どうしても重苦しい空気になるかと思いきや、そこまでの雰囲気にもならず、終始和やかに話をすることがほとんどであった。
叔母が指定した人間は全員で5名である。叔母という人間を全て把握しているわけではないが、その5名と言う数字があの人の狭くて深い交友関係を表しているようで、私はひとりで納得していた。
***
私は順調にインタビューをこなし、残るべき人物は叔母が1番の親友とも言っていた佐伯裕子1人となっていた。彼女は仕事が忙しいという理由から、なかなかインタビューできないでいた。
そうこうしているうちに、佐伯さんへインタビューをする前に叔母は亡くなったのである。
しかし何の因果か、叔母が亡くなった翌日に、佐伯さんからインタビューの件について、明日であれば対応できると一報が入ったのだ。
これは私の邪推だが、親友としては本当に叔母が亡くなるまでは、エンディングノートなどというものに関与したくなかったのではなかろうか。
叔母の葬儀は、参列者の都合を鑑みて、今週の日曜日に設定された。
叔父としてはもっと早くにでも執り行いたいようであったが、今の時代、火葬場さえも順番待ちなのである。
葬儀といっても通夜と告別式をやる訳ではなく、本人の意向から簡易的にお別れ会のようなものをやってくれればそれで良いとのことであった。
叔母が亡くなったのは火曜日であり、佐伯さんにインタビューするのは木曜日。金、土と2日間あれば、文章をまとめ上げ、エンディングノートという形に持っていくのもそこまで難しくはないだろう。
私の中で、できることであれば叔母のお別れ会までに、間に合わせたいという気持ちが大きくなっていた。
***
私は職場近くの喫茶店で佐伯さんと落ち合った。
今までの4人もそうであるが、いくら叔母の知り合いといっても、はっきり言えば、私にとってはただの初対面の年上の人間である。毎度この出会う瞬間ばかりは緊張する。
叔母は昔から私の会話力のようなものを過信している節がある。
しかしそんな緊張していることを人生の先輩方はお見通しで、大体の人間は、おばさんに頼まれて大変ねぇと私を気遣った。
「はじめまして、甥の佐々木と申します。今日はどうぞよろしくお願いします」
「いやー大きくなったね。直接会うのは小学生以来だもんなー。よろしくね」
どうやら私はこの人と初対面ではないらしい。もちろん記憶はない。
髪はかなり短めで、茶色く、目が大きく印象的だ。佐伯さんも叔母と同年代であるはずだから、60歳は超えているはずで、とてもそのようには見えない。はつらつとした印象を受ける女性だ。
今回で最後のインタビューだと少しばかり気を引き締めると、私は店内へと向かった。
***
私がずっと心残りだったことが1つある。
私は親の離婚をきっかけに家での生活に居心地の悪さを感じていた。この感覚は自分が歳をとるごとに解消されるものではなく、むしろ月日の流れに比例して、不快感が増していった。
そんなこともあって私はなるべく早く家を出て、自立しようと、高卒程度の公務員になろうと考えていた。公務員というのは、自営業で稼ぎに波のある仕事をしていた父親の逆を、無意識に歩もうと必死だったのかもしれない。
しかし高校で出会った恩師から、お前は大学にいって様々なことにふれて、学ぶことが性に合っていると言われ、私はふと今まで選択肢から削除していた大学進学を検討するようになった。
わざわざ大学へ大金を払って何を学ぼうというのか、私は長い時間をかけて自問自答した。
その結果、昔から少しばかり興味のあった法律学を学んでみようと思ったのであった。
そこまで深い理由はなく、何となく社会のルールを、社会に出る前に知っておいて損はないだろうと考えた結果だった。
大学へ進学しようと思うと叔母に話をしたとき、叔母はお金のことなら今の時代対応できると、返済不要の奨学金の話をすぐに始めたのであった。当時はすぐに現実的な話をするあたり、叔母らしいなと思っていたが、心の内としては、私が大学進学することにほっとしていたのではないかとも思う。
大学進学すると決めたのは良いが、高卒での就職から舵を切ったのは高校2年になってからのことであった。
公務員試験の勉強はしていたが、もともとあまり得意ではなかった英語は捨てていたこともあり、私の語学能力は中学レベルも怪しいほどであった。
ここから大学受験に耐えられるだけの知識を身につけなければならないのだと、当たり前のことではあったが、当時の私はかなり焦りを感じていた。
そんな時、その焦りをなんとか解消しようと私が思いついた策が家庭教師をつけるというものであった。
追い詰められていた私はそれくらい単純な作戦しか思い浮かばなかった。
現状焦りを感じており、このままでは到底大学になど受かることはできないと、私はすぐに家庭教師について叔母夫婦に直談判した。
今までの人生で真面目な相談をしたときに、叔母は首を横に振ったことがない。だからこそ私はどこかで、必ず応援してくれるはずだと安心していたのであろう。
しかし大学行くにあたって家庭教師を雇いたいと、私がそう言った時だけは、叔母は一切首を縦に振らなかった。
その時の自分は手段としての家庭教師が、大学受験合格という目的を達成するための絶対条件と信じて疑わなかった。だからこそ叔母にそのお金は出せないと言われたとき、自分のこれから、人生そのもの全てを否定された気分になった。
当然叔母が私の提案を認めない理由はあった。
叔母の主張は笑ってしまうほど正論だった。家庭教師をつけたからといって学力が向上する訳ではない。結局最後は自分が頑張ることができなければ、受験には勝てないと。それに今思えばその後の大学費用も当然必要になるわけだから、そのバランスも鑑みて、受験にあたってねん出できる費用を計算していたのであろう。
しかし当時の私は、叔母の気持ちを汲み取ることなど微塵もできなかった。
ただ気持ちを理解できなかっただけでなく、叔母夫婦はどちらも勉強ができ、だからこそ勉強、受験ごときに悩んでいる自分の気持ちなど分からないのだと私は2人に悪態を付いた。
私は素直になれなかった。
私は今まで1度も言ったことのないような言葉を2人に投げつけ、罵った。
今でも自分の心の中で引っかかり続ける。
今1つ確かな事は、もう叔母は死んだのである。もう二度と直接謝ることはできないし、あの時叔母が何を考えていたのか、その気持ちを知る術はない。
***
私はひと通り佐伯さんと話し終え、大体必要なことはメモにまとめられた。
高校時代、強豪バスケ部で、2人で全国を目指すために奮闘した時代の話は、胸が熱くなるものがあった。
佐伯さんは今までの誰よりも話しやすく、あのことを聞いてみたくなってしまった。
私は単刀直入に、佐伯さんに昔の経緯を伝え、家庭教師のことで何か叔母から聞いたことはないかと質問した。
「その話ね、私すっごい覚えてる。だってあいつ泣いてたんだよ?」
佐伯さんからすれば叔母の涙に慣れているのか、笑い飛ばすように話す。
私はやはり叔母のことを強く、深く傷つけていたのだと、心がえぐられるような感覚に襲われた。
「そんな顔しなくても大丈夫よ。あいつは昔から泣くときは泣く人だから」
佐伯さんにフォローされても、私の頭の中はぐわんぐわんと揺らぎ、ぼーっとしてしまう。
「それで、どんな話をしたんですか? 叔母と」
佐伯さんは腕を組みなおすと、そうねと一呼吸置き、どのような言葉を用いることが適切か確かめるように話し出した。
「あの人ね、戸惑ってたのよきっと。でもそれと同時に凄く嬉しかったんだと思うのよね私」
「嬉しかった?」
脈絡なく表出した叔母の当時の感情に私は違和感を感じた。
「あなたの叔母さんはね。あなたが思ったこと、言いたいことを言ったんだって何度も何度も繰り返してた。普段は絶対そんなことしないのにって」
それは確かにそうだった。幼少期から厳しい父の下で育てられた私は、気が付けば人の顔色ばかり窺い、自分の思ったことを思った通りに言うことができない人間になっていた。それが理由なのかは分からないが、気が付けば、自分の気持ちを言葉にしようとすると涙が出るようになっていた。
「そりゃさ、かわいいかわいい大好きな甥っ子に、いきなり強い言葉で罵られたら傷つきはするだろうけど。でもあいつはさ、びっくりしつつもさ、やっと思ったこと言ってくれたってあなたの成長を確かに感じてたのかもしれない」
佐伯さんは穏やかな瞳を私に向ける。
「成長、ですか」
「あなたが親の離婚をきっかけに、感情がふさぎがちになっていたって話はあいつから聞いてたからさ。あいつ、あなたのことが心配でたまらなくて、本当に大切に思ってたんだろうね」
でもちょっと過保護過ぎかと、佐伯さんはまた笑い飛ばす。
私は気づけば視界が揺らいでいた。
頬に熱い雫が至る。
そうか。俺は今泣いているのだ。
叔母の死後の姿を直視しても泣けなかったというのに。
「大丈夫?」
佐伯さんは、あなたも案外あいつと似てるかもねと笑みをこぼすと、私にハンカチを手渡した。
***
私としては、叔母が火葬されて骨になろうがならまいが、亡くなったという事実だけは変わらないと思う。肉体、魂といった宗教感は自分にはよく分からない。
しかし叔母の顔を見て一方的に謝るくらいはできるだろうと、私は自分勝手に考える。
エンディングノートの完成そして配布を日曜日までに間に合わせようと、私は決心した。
***
私は必死になってエンディングノートを完成させ、無事お別れ会にて叔母に指定された者に配ることができた。やってみればあっけなく終わってしまう。
叔母が火葬される前、最後の挨拶の時、私はあの時の話を佐伯さんから聞いたと、あなたの気持ちを何も考えられず申し訳なかったと伝えた。
もはや自分の気持ちを安らげるためのただの懺悔であったが、やらないよりはましだろうと私は思い込んだ。
叔母の最後を目の前に、参列者は心から涙していた。
叔母は人から確かに好かれていたのだ。
***
火葬を終え、箸で遺骨を拾い上げ、骨壷に詰める。
分骨が済めば、皆一様にちりぢりとなった。
帰りのタクシーで骨壷を抱えながら、私はこんなふうに誰かの思い出を集めることを、また誰かのためにできないものかと思う。
私は流れる景色を横目に、また少し余計なことを考えてしまう。
今回の私が受けた依頼とは、本当に叔母のわがままだったのだろうかと。
最初のコメントを投稿しよう!