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■  ペンチからハンマーに持ち替える。  左手で袋をブルーシートに押し付け、固定。手袋でハンマーの持ち手をぐっと握りしめた。  自分の顎くらいの高さまで振り上げて、そこから一気に真下へ。ごつ。ちょっと柔らかさをもつ岩を叩く感触みたいだ。そう毎度のことながら思う。  袋に当たると同時に、鈍い音がした。  数回続ければ、ぬちゃりと湿っぽい音も混ざりはじめる。ガワが壊れれば次は中身が出る。出始めたのだ。袋口から、じわりと液体が流れるがまあ問題ない。  液体を固形にしてくれる薬品を振り撒いているので、そのうち固まり始める。お値段はそこそこするが、それなりに水分を吸ってくれるやつだ。  血液の九割は水。つまりはだいたい水。  額の汗がたれる。二月の風が皮膚にぶつかる。すん、とマスク越しに鼻をすすってみた。異臭かどうかも分からない。麻痺している。  嗅覚も倫理観も。  解体作業ほど面倒なものはない。人体ならば、なおさら。  こっそりばれないようにするには小さくするしかない。可能なかぎり音を出さず、臓器への傷は最小限にというのがご要望。無茶言うなという話だ。  ほんとうに骨が折れる。折っているのは、自分のほうなのだが。ひそりとマスクの繊維にぬるいため息がぶつかった。  ざく、ごり、ぼき、めり、ごりゅ。形容しがたいがそんなかんじの音ばかりが溢れる。 「あ」  反射で、振り上げかけた手が止まる。  音だった。  音というか、声。高くもなければ低くもない、青年の。うん、そういうやつだ。  浅く納得しかけたところで、やや遅れて、いやと首を振る。どう考えても可笑しい。この部屋には一人と一体しかいないのに。  一人はもちろん自分。一応生物学上は女であるからして、モモナのものではない。  一体は、物言わぬ肉の塊であるし、お世辞にも青年とよべる年齢じゃないんだけれども。おかしいなあとはてなを浮かべつつ、転がる肉体を一巡。  爪先から頭のてっぺん――は、袋に覆われてるから確認できないので、首下あたりまでを見た。  見たところ中年といったところか。  肉体年齢的にはそれくらいにみえる。とはいっても現状グチャグチャになりかけで、年齢なぞすぐにどうでもよくなる。  うんうん頷きかけたところで、またもやぴたりと止まる。冷汗が背筋を通りすぎていく。ここで一つ、どうでもよくないことが確定してしまったからだ。  ――え、じゃあ、だったら、誰の声?  ふらりと顔を上げる。いつもならば、そんなことはないのに。たぶん危機管理能力が死んでいた。  見上げたさきには、人影がひとつ。  全開の窓の奥、遮るもののないベランダの柵にぶら下がる形で手をかけている。何だか不審者のお手本みたいだった。  みたいというか間違いなく不審者だ。  ばちんと目が合う。「あ」の形に侵入者の口が開く。思いのほか若そうな顔立ちだ、なんてモモナはのんきにも思った。現実逃避である。  だって、対抗手段はもっていないし、逃げることも難しい。戦闘能力は皆無。体力も一般女性平均よりやや下あたり。能力パラメータはガタガタである。あぐらをかいて座り込んだままの自分の体は、ちっとも逃げられそうになかった。  瞬発力というものとは、縁遠い。  こんな人間解体作業をしているが、相手どれるのは物言わぬ死体だけなのだ。自信がある。生きてる人間であれば、普通に負けるという自信である。  ややして、あれ、とモモナの首がやや傾く。  脳内でクエスチョンマークが点滅した。  はて、おかしい。ここは十階なのだが。いやでも、壁をつたって上階に侵入する輩も珍しくないというし。  いつ見知った情報だろうか。ニュースか、はたまた同業者の話のネタだったか。  などとウンヌンカンヌン。  記憶をひっくり返す間も眼差しはぶつかったままだった。見つめあうというか、互いに身動きがとれなかったというか。  なぜって、自分の身の安全のため。目を逸らせば、途端死が飛んでくるかもしれないから。被害妄想ではなく、経験則であった。  ここでいう飛んでくるものとは、ナイフだとか、毒針だとか、薬液だとかをさす。ときどき鉛玉もある。  このとおり、表沙汰になればまずいことを生業としているので。通りかかった信号が青から赤に変わるくらいには、ありえる。  ようするにかなり可能性が高い。  ついでにいうと、まず一般的に思い浮かぶ通報という手段はとれない。なぜってやっぱりこの通り自分が連行される側だから――。  もしかしなくても、この状況って詰みでは?  冷たい現実に気付いてしまった。おわった。途端、すん、とモモナの目の奥が死んだ。  一方、青年もまた身動きがとれなかった。  深夜三時。柵に手をかけ今にもベランダ内へと入ろうとしている体勢。見てのとおり、立派な不審者だったし、その自覚があった。  こりゃやばいなあと。  ふつうに堂々と不法侵入の構図である。叫ばれたら即退散しようと思っての危機感と緊迫感、緊張感。  ちらりとも動きがない。沈黙が続く。  気まづすぎる。鼓動すら、はばかられる静寂で埋め尽くされていた。ただでさえマスクをしているというのに、ことさら息が詰まる。身じろぎも唾を飲み込むこともできそうにない。  ほんの数メートルの距離を挟んで、二人は固まっていた。はたからみれば、まるで化石か石像だった。  動いるのは空気だけだ。郊外の高層十階建は、物静かなものだ。無風らしく風の音もしない。おかげで充満する血の匂い。  やっぱり空気洗浄機でも買うべきだろうか。  いやでもお金がかさむ。すっかり嗅覚はいかれているので、もはや分からないが。だったら必要ないか。  なんて意識が散漫しはじめた。  モモナの得意技は現実逃避なもので、いまいち緊張感に欠けるのだ。  そんなぬるいこう着状態のなか、 「あのー……、」  先に動いたのは彼のほうだった。 「えと、すみません。ダメ元で言うんですけど」  そろりと視線が揺れ三秒、窺うような眼差し。  口端が妙に上向いている。眦がやんわりと溶けて、弓形に変わる。もしや睨まれている?  一瞬びびって体重が後ろに傾きかけ、いや待てよと思いなおす。  がん付けられているのかと思ったが、どうやら違う。困りきった笑みだった。これは、あれだ。頼まれて断りきれないときの顔だ。  知っている。なぜなら、自分もよくするから。 「あの、はねやすめさせてもらってもいいですか?」  はねはすめ。ああ羽休めか。  口のなかで音を転がしたところで、ようやく理解が追いついた。ウロと視線をずらす。よくよく見れば彼の背には、なるほど確かに羽がある。  所々に透け感のある、何だろうか、蝶のような羽。かぎりなく薄い羽にはわずかに光が透けて、ベランダに滲むような模様を作っていた。  ひととき眺めて、防御力なさそうだなあなどとモモナは思った。  それから、顔へと視線を戻す。  思わずアラと顔を顰めてしまった。いくつか歳下だろう顔には、疲労の色がのびていた。薄暗さのなかでも確認できるくらいには、べっとりと。  本来ならぱちりと開いてそうな瞼は、ひどく重たそう。意識を飛ばなさいため、何とか瞬きをしているといった具合だった。  あれは疲労とストレスと寝不足の証拠だ。たぶん。きっと。確信を持って断言、はできないが、そうだろうなとは思う。なぜなら自分がまさにそうだから。  おやまあ、おつかれさまです。同族意識がちょっぴり芽生えた。  にょきりと、芽生えてしまったものだから、 「……えと、はあ、まあはい」  うっかりミスった。 「いいっすよ……」 「え、いいの? まじ?」 「あ」 「え?」  目が合う。ばちんと音が鳴りそうなほどの勢いで。きょとりとした丸い眼差しが不思議そうに続きを促してくる。  やばいしくった。  だらりと冷汗がこめかみを伝う。  恐ろしくか細い声であったのに、なぜだか届いてしまった。なんで聞こえているのかさっぱりだ。耳いいですね。  なんてウンタラカンタラ、内側では濁流しているのに、モモナが返答できたのはきっかり三秒後。 たったひとことだけ。 「……いや、なんでもないです」  間違えました、なんて到底言えなかった。 「そおですか? やー、助かりますまじで」  パアと表情を明るくすると、「よっと」と何とも気の抜ける声。あれよと完全に柵を越え、華麗にベランダ内へと体を入れこんだ。  鮮やかな侵入だった。明らかに手慣れている。  そのまま汚れるのもかまわず地面にぺたりと腰をおろす。その拍子に、バサリと羽らしきものが動いていた。  あ、汚いから座らないほうが――。  それは声になることなく、胃のなかに落ちた。止めるべく不恰好に浮いた腕が心許ない。  ベランダなんぞ完全に飾りと化していたので、ろくに掃除もしていない。埃やら虫の死骸やらで座れたものじゃないだろうに。  覚えてはないし、少なくともここ数年は出ていないけれど、確実に座れる状態ではないことだけは確かだ。  声にはならなかったものの、何やら気付いたらしい。モモナの腕を見て、顔を見る。そうして二カリと笑った。笑った? え、なぜ笑う?  怪訝さにぎゅっと眉が寄った。  同時に、溌剌とした声がまっすぐ飛んでくる。 「あー多少汚れても全然気にしないんで! おかまいなく」 「え、あ、はい」  あなたがかまわなくても私がかまうのだけども。本人がいいというなら、まあいいか。いいだろう。うん、いいことにしよう。いいことにした。  座るポジションを変えようと、柵に背を預ける。ふわりと黒が揺れる。やっぱり何度見ても羽っぽいものだ。本物だろうか。  本物であれば、なかなか便利そうである。利便性と同じくらい、邪魔そうだけれど。  月明かりだけで、ぼんやりと彼のシルエットが浮かんでいた。部屋の電気はついていない。安全性のためであり、節電でありやはり節電である。一円でも惜しいので。  真っ赤なダウンジャケット。  細身のスラックス。大きく背から伸びる羽らしきもの。色は恐らく黒っぽい。どことなくアゲハ蝶に似ている。  羽以外、薄ぼんやりとした夜には、紛れそうにない色合いだった。なのに、どうしてか気配がかぎりなく薄い。  それらをぼんやりと眺めていると、視線がうるさかったのだろう、彼がこちらを見た。  殺風景な室内を軽く見渡して、再度視線が戻る。目が合う。すると、ぎょっと目を剥かれた。  かとおもえば、気遣わしげな、何かもの言いたげに口をつぐむ。  何なのだろう。何だか、化け物を見たみたいな反応である。どこか既視感があるような。どこだったろうか。しばし記憶を辿ればヒットした。  あれだ、逃亡者がイッセイを見るときの反応だった。  思い至ってしまい、しょっぱい気持ちになる。  あのひとと同じ部類に見えたということ? ふつうにショックだった。 「うわ、顔色わる……俺がいうことじゃないけどさ、なんかおねーさん、疲れてんね……」 「そうですね眠たいっすね」  ショックのあまり、ぼんやりと唇が答える。それはそうだ。こちとら今日で、あれ。 「……何連勤目だっけ」 「うわあ、チョーブラック。寝たほうがいいっすよ」 「寝たほうがいいんでしょうね」  はは、と乾ききった笑いが出た。そんなものできるものならやってる。「アラむりそう……」視界の隅っこから注がれるのは憐れみの空気。遮るものがないので、ダイレクトに刺さった。やめてください。 「……ンー……まあ、それもそっか」  声のトーンが急降下、彼の目線も下がる。 「そんだけ人間捌くお仕事? ですもんね」  ドン引いた声を聞きつつ、そうかと思う。そういう反応するべき行為だったか、これは。  意識はまた手元に戻る。凄惨な現場。  そういう言葉がぴったりなありさまである。死体、ハンマー、薬品、血みどろな両手。改めて見ると、酷い。ウワアと若干引いた。悪趣味すぎる。猟奇的とでも追加されそう。  違います。私の趣味ではないんです。けして。  一般的な倫理観も道徳観がどういうものだったか、薄れている。生きるためには邪魔だったので、ずいぶん前に取りこぼしてしまっている。  それでもとりあえず、そっと、振り下ろしかけたハンマーを停止させた。良識はとりこぼしてるが、気遣いと配慮はできる人間だ。 「いまさらだけど、すみません。汚いところで」 「え? や、ぜんぜん。押し入ったのはこっちですし」  それはそう。ごもっとも。  というか、 「……驚かないんですね」 「え」 「え、や……ふつう驚いて逃げるところですよね、コレ」  目で示したさき、解体現場。明らかにこんな会話できる状況ではない。  彼はそろっと見やり「んん、まあそうっすよねえ」とうめく。なるべく注視はしたくないらしい。それはそう。それから、言いにくそうに口をもごつかせる。 「でもなんだろ、ビビリはしてるけど、あんま実感がないってか」 「危機感だいじょうぶですか」 「いやだっておねーさんもなんかお疲れっぽいし。常識ありそうなひとだし」 「ええ……常識の意味知ってます?」  心の底からドン引いた。  目か脳が腐っている方? 「はは、俺いくつだと思ってんすか。さすがにばかにしすぎですよ」  爽やかな笑みが場違いだった。  笑い飛ばしてるところ悪いが、まったくもって本気である。道から外れたモモナに常識を説かれるのはかなりやばい。  イマジナリーフレンドさえ、ちょっとネジが足りないようだ。もっとまともなひとがよかった。  モモナがいったい何をしたというのか。  法にちょっぴり抵触してるくらいなのに、いやこれか。これだな。  犯罪者は想像さえもやさしくないのか。当然の理である。納得していることだが世知辛い。思わずモモナの目が遠くなる。  くわり、と欠伸を噛みしめる。  目がしょぼくれている。瞬きを数回。ほんとうならば目頭でも揉みたいところなのだが、両手はこのとおり血みどろ。触れられる状態ではないので諦める。  手袋を外せばいい話ではあるが、一度外すと次また新しい手袋を出すことになる。ぴったりと手の形に馴染むものなので。使い勝手の良さからこのタイプを好む。  無駄は避けねば。塵もつもればなんとやら。 「そういうおねーさんこそ、」  はい? と見やる。彼はどこともしれないところを見て、小さく唇を動かす。 「アー……ふつう驚かない?」 「なにが、でしょうか」 「や、ほら。俺のこの格好」  モニョっとした口調と言い方だった。ちっとも明瞭ではない。何が言いたいのか。ちらりと視線を横へ。ちょっと腕も疲れたので、小休憩がてらハンマーとペンチも横に置く。  ブルーシートがハンマーの重みで波打つ。たまった血が流れて移動した。  彼は不思議そうな表情で、「ほら」と己の背中を指した。相変わらず光源は月だけ。ぼんやりとした視界のなか、それでも目を凝らせばまあ見える。  ダウンジャケットの背の部分、ちょうど背骨を挟んだ左右に大きく縦方向に破けている。そこから羽が伸びていた。というより、翼なのだろうか。  なんて思いつつも、特に、その裂け目の形状が目についた。  明らかに意図的に空けた穴だったから。  破けた形からして、鋏かカッターかで出来たもののようだ。たぶん彼が自分で服に穴を開けたのだ。羽のために。  羽を覆う形で上着を着るのは居心地悪いのだろうとあたりをつける。感覚的には、フードが挟まれている感じに近い気がした。確かにあれは気持ち悪い。  と、ここまで考えて、はたと止まる。  それで結局、何を言いたいんだろうか?  答えを求めてそろりと視線を投げるも、彼は煮え切らない表情のままだった。というより、これは、何やら言葉を待っている様子。  え、いったいなにを言えば。  冷汗がモモナの背中をつたう。死体の頭をハンマーでかち割るより緊張する。なぜって、慣れていないのだ。  逡巡、熟考。からの熟考。  思考を重ねに重ねて、ぶあついミルフィーユくらいに考え抜いて、ごくんと唾を呑みくだす。  背を示す指さき。  ゆらめく羽、ぱっくりとダウンの穴。  えーと、つまり。 「……器用なんですね」 「え」 「その、服の穴自分で開けた……んですよね?」 「ああうん。うん? はい」 「なので、手先が器用なのだろうな……と」 「ありがとうございます?」  間違えた。明らかに戸惑っている。  どうやら彼の言いたいことはこれではなかったらしい。どうやらというか、間違いなくそう。何とも言えない空気が数秒。  彼の顔を見て申し訳なくなる。どうすりゃいいんだこの空気、とはっきり書かれてある。だが、それはモモナも同じだった。  どうすりゃいいんですかこれ。 「すみません。生きてるひとと話すの、あんまり機会がなくて」  九割は死んだ人間と睨めっこ。  残り一割は、スーパーの店員か仲介人からの業務連絡くらいしかない。  改めて意識すると、もの悲しい交友関係だ。 「ワア物騒……あ、でも友達いないのは俺もおんなじなんで、その、元気だしてください」  なんとも雑な慰めだった。  それに素で友達百人いるタイプだ。気を遣った謝罪が余計に心に沁みた。  こういう気づかいがいちばん辛いのだ。それでも、疲労しきった脳と心にはクリティカルヒットしたので、掠れた声で「いえ、ありがとうございます」と返したところで。  彼が急に「あ!」と声をあげた。  あまりに唐突だったものだから、びくりと肩が揺れる。びっくりしてる間に、彼は後ろからビニール袋をガサゴソと取り出す。  それから、す、と差し出されたのはおにぎりがひとつ。コンビニでよく見るやつだ。  ツナマヨと明記されたフィルムをぼけっと見てれば、彼は朗らかに言った。 「ワケアリなんだろうけどさ、その、あんま無理しないでください。よかったらこれ。初対面の男からとか信用できないだろうけど……」  あ、なんなら毒味しますよ? そうおどけた風に付け足される。ならばと頷いたのは無意識だった。 「……いいんですか?」 「え、はい」 「なら、ぜひお願いします」 「ん? あ、どうぞ」  ずい、と差し出されるおにぎり。  あれ、お願いしますといったのだが。窺えば、彼は目をぱちくりさせて「あの、はい、どうぞ?」とさらにおにぎりを差し出してくる。  ええと、つまり、え?  脳内停止、ついでにモモナの視線も身体も止まった。一秒、二秒、三秒。空白が伸びていく。  二人の視線は交わっている。  けれど、目と目が合ってもまったく通じ合えない。彼は、ベランダから身を乗り出して、せいいっぱい腕を伸ばしている。だいぶきつそうで、腕がぷるぷるし始めた。 「あ、の! わりと限界なんで、受け取ってもらえると! 助かるんですが……ッ」  何ともまぬけな格好である。  けれど、けして室内には入らないようにしているところは、好感がもてた。そもそも不法侵入してる時点で、論外なのだが、そこらへんの判定がぶっ壊れていた。やはり寝不足。  ついでに補足すれば、モモナの知っている人間のほとんどが人様のお宅に土足で踏み入るタイプだ。比較する治安が悪い。  だからまあ、大丈夫だろう。そう判断した。  それになんてったって、彼はモモナの頭のなかの住人なのだから。  右手の手袋を外し、ぽいっと後ろに放る。  いくら想像とはいえ他人の血液まみれの手で受け取りたくない。そろりと彼の震える手――おにぎりに手を伸ばして、 「じゃ、じゃあ……ありがたくいただきま」 「アッ! ちょい待った!」  一瞬で、素っ頓狂な声と共におにぎりが遠ざかっていった。一体何なんだ。ろくにご飯ももらえないのか。  やさぐれた耳に、恐る恐るといったようなつぶやきが入り込む。 「あの、もしやお願いしますって毒味のことすか?」 「……や、違います」 「嘘ですよね」 「い、や。違いますよ」 「ぜってえ毒味ですよね」 「ええ」  なけなしの反射スピードで誤魔化そうとしたが、やはり無理だった。秒で見抜かれた。  もう言葉が出ない、ふっつりと口を閉じた。  何を言ってももう無駄である。その証拠に呆れたふうに見やられる。 「なんで言ってくれないんすか」  なんで。なんでって、 「いや……別に言い直すほどのことでもないので」  想像上とはいえ、目の前にいるあなたは他人には変わりないからです。  とは、やっぱり言えなかった。  知らん相手に勘違いを訂正できるほど、モモナのメンタルは強くないし度胸もない。 「ウワア嘘。おねーさんて分かりやすいですね。全然そんくらい、もちろんやりますよ」  分かりやすい?  包装を開ける音。続けて、パリッと海苔の音が静かな部屋で鳴った。それから当たり前のように、ぱくりとひと口、彼の喉がごくりと上下した。ウンうまい、と頷く。  それらを見届けて「どうぞ」と差し出されたのは齧られたおにぎり。  受け取ろうか、受け取るまいか。  躊躇って、結局そこに置いておいてください。と小さく告げる。いや、いらないですとは言えなかった。しかし横から、ア、これもよかったらどうぞ。と何やら提示される。  サンドウィッチとアイスとお茶であった。  どんなラインナップだろうか。  お茶に視線がとまる。乾ききった口内で舌が揺れた。そういえば喉が渇いた気がした。はて、水分をとったのは何時間前だろうか。 「じゃあお茶を、」  伸ばしかけた手。が、ぴたりと停止。  いや、待て。 「あの、一応確認なんですが」 「はい? あ、毒味ですか? やりますよ」 「……そうじゃなくて、これ」  あげる代わりに、無償で解体依頼引き受けろとか、あの、そういうやつですか? 「あ、はい。手汚れてますもんね」  出かかった言葉は音にはならなかった。  グッと喉奥に押し込まれたからだ。というか、口の中に何か詰め込まれた。目の前には彼の顔。  一瞬で距離を詰められた。すわ毒か? そう思いかけた仮説は早々に外れた。  この味、ツナマヨである。  美味しいってやつは無敵だ。ついさっきまで、ガチガチに強張っていたはずの全身からあれよと力が抜けていくのだから。 「……あれ、なんか気のせいじゃなければ、警戒心消えました?」 「いやあ、……なんかもういいかなと」 「ええ、急にゆるゆるじゃん……心配なんですけど。取り戻して警戒心」  困惑しきった瞳。見慣れない眼差しだった。ほんの少しの、たぶん心配だとかいうものなのだろう。  時計を見たかと思うと、「あ、やっべ」と焦る声。慌ただしく立ち上がると、流れるように柵に足をかける。やっぱりそこから帰るようだ。羽は見た目だけじゃないらしい。忠実なことだ。  これまたぼけっと眺めてしまう。やはり睡眠が足りていない。  そそくさといざ飛び降りようとして、ぴたり。振り向いた彼の口もとは、ゆるく弧を描いていた。 「んじゃまたね、おねーさん。ちゃんと戸締りしなよおやすみ」  一言にまとめてくれ。一気にたくさんのことを言われて、情報量が多い。それでも回らない頭で選びとり、吐き出されたものをつぶやいた。 「……お、やすみなさい?」  一人と一体に戻った空間におぼつかない返事が落ちる。  いつぶりだろうかと思う。だいぶ久しぶりにその言葉を口にした気がする。何だか変な脳内。われながらヘンテコだ。  ひとときベランダを眺めて、作業を再開させる。  もったいないが、また付け直す気にはなれなかった。しかたない。新しく手袋を箱から抜き取り、つける。 『おやすみ』  ハンマーを掴む。  乾きはじめた血がぱらぱらと落ちた。 『おねーさん、ちゃんと戸締りしなよ』  やや血が乾き始めているのを横目に、頭上まで掲げて。 『んじゃまたね』 「……あれ、」  ぐちゃり。振り下ろしたハンマーが、湿っぽく音を立てた。 「またね、ってなんだ」
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