2

1/1
前へ
/9ページ
次へ

2

■  結論からいうと、イマジナリーフレンドではなかった。 「ではなかった……」 「ン?」 「え、や、なんでもないです」 「ふうん? 分かった、おっけい気にしない」  素直か。いや素直だ。  ウンウンと頷く青年を、ぼうっと眺めてれば瞳とぶつかる。「あ、目ぇ合っちゃった」それはそう。こちらが見ているのだから、合うに決まっている。  彼はちょっぴり恥じらうように頬に手を添えている。どういうノリなのだろう。  何と返せばいいのか分からず、視線が蛇行してしまう。それから、そおっと顔をそらす。  無意識に下がる目線。  たどりついたのは血だまり。  ああそうだった、薬品をまだかけていなかった。  視界のはしっこで、こちらを見ている気がするが、見えないふりだ。  よく分からないのでスルーすることにした。  気にしないことが大事。モモナの処世術である。これで、だいたいどうにかなるのだ。  なのでまるっとスルーして「あの、」と口火を切ろうとした。したのだが、心得たふうにビニール袋が渡される。 「これ今日のぶんね」  とっさに受け取ってしまったのはしょうがない。 中身が指だとか、髪の毛だとかであればさすがに「いやちょっと、これは」とちょっぴり拒否の意思をみせる。まあどっちにしたって結局は受け取ってしまうのだが。 「ちゃんと食べてください。どうせモモナさんろくなもん食べてねえだろうから」 「あの、チヒロくん」 「チヒロでいいってば」 「……確認なんですが」 「ん? なんすか」  彼はこれまた素直に聞く姿勢をとって、やや体を乗り出す。二つの羽がわずかに揺れた。  自然と、その背に視線が伸びてしまう。  今日とて室内に明かりはなく、月明かりばかり。青年はベランダに座り込んでいる。  やっぱり何度見ても現実らしかった。これすらも幻覚、あるいは夢のなかでなければ。手に握るハンマーの感触がうらめしい。  夢のなかですら労働しているというなら、賃金はきちんと発生していることを願うばかりだ。 「あの、」 「うん?」 「なんで、来たんですか」 「なんで? なんでって、……え、またねって言いましたよね俺」 「そ、うですね」  そうだけどそうではなくて。  そう思うも、飛び出たのはありきたりな相槌だった。なんでそんな当たり前みたいに言うんだろうか。ぎゅっと眉間に皺が寄る。  けれどすぐさま平たくなる。  納得してしまったからだ。答えはチヒロの顔に書いてある。当たり前なのだろう、たぶん。チヒロの当たり前はモモナにとっては異質すぎるが。  ――最初の遭遇から二週間後。  当たり前の顔をして、彼はコンビニ袋を片手にやってきた。 『あの、すみません……今日も羽休めさせてもらってもいいでしょうか……』  この前と同じく、窓からふらりと。  これでもかとひどく恐縮そうに、申し訳ないという感情いっぱいだった。なのに、「あ、こんばんは」と付け足された挨拶がなんとも不似合いで。  初め、幻覚かしらと思った。  ここ最近は、また睡眠時間がろくにとれない日々であったから。あとは幻覚であってほしかったともいえる。疲労と睡眠不足がみせた夢であれ。  けれど、しかし、やっぱり。  そんなことはなく、しっかりとチヒロが現実だと認識したのは本日のことだ。というより、ついさっき。  前回までは、夢かと思っていた。  チヒロの訪問は今日で四度目。さすがにこうも続くとアレ? と思う。  気付かないふりをしたかったが、無理だった。やはり睡眠は大事。  お礼を述べつつ、差し出されたコンビニ袋をそろりと覗く。定型的なお礼の言葉なのに、チヒロは満足そうである。  変な子だなあと思う。  イマジナリーフレンドではなく、生身の人物だと認識してからの印象はそんなものであった。それから律儀だなとも。  チヒロは毎回こうして食料をくれる。  曰く、羽休めさせてもらってる対価だという。物々交換。なんとも原始的なやりとりが不思議にも現代で成立していた。いつの時代かと思うが、都合がよかった。お金と違って証拠に残らない。 「ね、モモナさんてさ、なにが好き?」 「……おにぎりは好きですかね」 「何味?」 「何味……昆布とか鮭とか」 「分かる俺も好き。おいしいよね」  うんうん頷くと、「じゃあ次からはそれにするね」とニッカリ笑顔。瞼を閉じたくなった。  夜のはずなのに眩しすぎる。暗がりに慣れきった眼球には少々痛い。そっと目を逸らしつつ、曖昧に首肯した。  太陽そのものみたいな笑み。好意的な態度。  モモナは、頭はよくないが、特別ばかでもない。  なので、うっすらと察していた。  向けられるそれらすべて、自分は無害なのだというアピールだろうなあと。  警戒はされて当然だ。こんな毎度死体解体している女。むしろ警戒しないほうがおかしいし、その場合相手の人間性のほうが疑わしいし、モモナの警戒レベルが上がる。  それによく分かる。  誰だってわが身がかわいい。危害を加えられる可能性があれば、矛先が自分に向かないよう振る舞うに決まっている。  実際には、そんなことできないし、むしろ殺されないか危惧してるのはこちらのほうだけど。  なんて本音ごと、もぐりとおにぎりを口に放り込む。冷えても美味しい。  美味しいと思いつつ、ちょっぴり落胆した。  しっかり温度も味も食感もあることから、やっぱり幻覚ではないらしかった。夢みたいな嘘のような現実だ。 「モモナさんてさあ、ほんとにそっちのひと? だめじゃねそんな簡単に食べちゃ」 「ええ、持ってきたチヒロくんが言うんですか、それ」 「そういうとこが、こう、不安になるってか。はらはらする」  俺みたいなやつ簡単に部屋に入れるしさ。  嗜めるような声音だった。心配するところがおかしい。わずかに呆れも含まれている気がして、こちらのほうが呆れてしまう。  何も心配いらないのに。そもそも、 「いや、誰もこんなところ来ないですから……」  チヒロくらいしか。だから、もう来なくていい。そう、言うのだ。いまだ。  いましかない。言え。 「だから、もう、パトロール? はしなくても、……その、大丈夫ですよ」  意気地なし。オブラートで数十層にも包んだかんじになった。加えて萎むような声量だったが、まあ意味は同じだろう。  うん同じである。同じということにする。  チヒロは心底納得のいってないとばかりの表情である。事実であるのに。 「や、来たくて来てるし。羽休めだし」 「心配しなくてもチヒロくんを暗殺したりしませんよ」  しないではなく、まずできないというのが正しいが。 「……べっつに、そんなん心配してないけど」  ぶすくれた視線。わずかに肩が揺れて、警戒したように力が入る。  モモナとて、警察だとかの人間かとも思った。  けれど、彼曰く『俺も追いかけられる側なんだよね、見てのとおり』とのこと。  これには納得しつつ、特大のため息が出てしまった。こんなにも物騒なおそろいがあってたまるか。 『だから羽休めさせてもらうついでに、パトロールさせてよ』  そう、何を思ったのか、チヒロはとんちきなことを言って、勝手にパトロールがはじまった。  何をばかなことを言っているんだろう、この子。  あまりに信じがたくて、モモナは目も耳も疑った。ない勇気と対抗心を総動員して、必要ないと言ったのだが、主張は聞き届けられたことはない。  おまけに、ばか真面目に主張するものだから、渋々折れたのだ。単純に諦めが勝ったともいう。  頑なに拒否するのもエネルギーを使うのでしたくない。ただでさえ、日々の業務で体力も心もすり減っているのだ。  それに、チヒロがここまで食い下がる原因に思い当たるものが、ひとつだけあったというのもある。  まだイマジナリーフレンドだと思っていたとき、ついつい愚痴をこぼしてしまっていた。  それがよくなかった。  不健康さのお手本のような食事と睡眠生活であることが知られてしまっている。ほんとうに失態である。言い逃れできない。  何かの手違いで忘れてくれないだろうか、くれないだろうな。頼りなさすぎる希望的観測はあっけなく消滅した。しゅんと肩が落ちる。小さくおにぎりを齧った。  今日とて冷たい美味しさに慰められた。 「ほんと、せめて水くらいはとりなよねえ……って」  とまあ、そうして、今にいたる。 「聞いてないっしょ、モモナさん」  じとりとした視線が向けられる。  ようやく意識が目の前に戻る。咀嚼して、浅く頷く。いやなことに気付いてしまった。 「……うん、聞いてませんでした。ハイ。すみません」 「変なとこで正直だよね」  慣れてしまったなと思う。 「モモナさんて」  たどたどしくなぞられていた名前。  それが、いつのまにか彼の口に馴染んでいた。おまけに自分の鼓膜にも。違和感のなさに驚く。  はは、と愛想笑いで誤魔化した。  チヒロと自分自身を、誤魔化したかった。けれどお見通しらしい。むすりと唇を尖らせて、目を眇められてしまう。 「そういうとこが不安になんだよなあ」 「ええ、どこがです?」 「だってモモナさんやさしいし」  やさしい。その形容詞に口ごもった。  数拍おいて、結局また愛想笑いで返答してしまう。チヒロに悪気があるわけじゃない。ただ、やさしいという言葉が好きではないだけだ。  モモナにとって、「やさしい」は「よいカモ」と同義であるから。いいように使われて、何もかもあるだけむしり取られる。  悲しいことに、世界はそういうふうにできてる。  いや、悲しいとはちょっと違うかもしれない。ただ、目の当たりにしてはときどきやさぐれた気持ちになる。 「ア、信じてない。分かるかんね、俺」  羽がはためく。淡い風が前髪を攫った。  曰く、チヒロの抗議の意だという。独特すぎる。夜色の羽に、一部の変色した箇所を見つけてしまう。ウワアと言いそうになった唇をきゅっと閉じる。  なんで気付いてしまったんだろうか。  気付いてしまいたくないことばかり目につく。  せめてもと、そっと目を逸らす。逸らした先には肉片になりかけの死体。げんなりするも、これがモモナの現実だった。 「あ、これ?」 「なんにも言わないでください、いやほんとうに、かんべんしてください……」  われながら心底厄介なものを見たという声だった。 「えー、そこまで言われると逆に言いたくなっちゃうんだけど」 「やめてくださいまじで」 「てかさあ、よく分かったねモモナさん」 「分かりたくなかったですよお……」  それでも、気付いてしまう。見慣れてしまっているから。  変色した、かぎりなく黒っぽいものは血痕だった。  しかも恐らくチヒロのものではない。怪我をした様子も、仕草も見受けられないから。  またゆるやかな笑い声が流れる。  続けて「知りたくなったらいつでも言ってね」とのこと。何と返せばいいのか言葉を探すも、見つからず曖昧にへたくそな笑みを刻んだ。心の中ではそっと本音がこぼれる。  そんな日は来ないですよ、と。  そんな気になることはない。おそらく、絶対に。  チヒロの個人情報について、これまで聞いたことはない。  余計なことは知らないにかぎる。  くそったれな人生のなかで得たライフハックだった。なぜって、知らない方が圧倒的に殺されない可能性があるのだ。  ちら、とまた瞳が吸い寄せられていく。  それはそれとして、だ。借金を背負う身としては、お金に換算してしまう。最悪の職業柄だ。  根本、生えぎわはどうなっているんだろうか。これまで扱ってきた人体とは異なるだろうが、壊すのはいっしょだ。変わらない。  まずは、羽をどう切除、切り離すか。可能なかぎり傷付けないように、だ。きっとそれだけの価値がある。とんでもない額になるだろう。趣味のわるい人間の多くは真新しいものに金を惜しまない。  お金が全てではないのかもしれない。  けれど、お金があれば人生を買える。少なくともモモナにとっては、ずっとそうだ。 「モモナさんて俺にあんま興味ないよね」 「え、や、ないってことはないですけど」  解体の算段をしてた脳内が冷え切る。  何だそれは、イメージトレーニングしていたことへの皮肉ですか。引き攣った愛想笑いが張りつく。  チヒロが浅く笑った。 「や、違くて、嬉しいってこと。これまで何回かばれたことあったけど、みぃんな根掘り葉掘り聞いてきたからさ……あれ、これ自意識過剰っぽい?」  モモナの唇が薄く開きかける。ややして、何も音を出さずにゆるりと閉じた。  心底、情けない顔をしてるだろう自覚があった。  こういうとき、言葉が出てこなくて、困る。  何と返せばいいのか分からないのだ。どこを切断すれば効率がいいかとかは思考せずとも分かるのに、すっかり染み付いて無駄なく最適解を選びとれるのに。なのに、適度な会話というものはちっとも分からない。  いつまでも分からないまま、生まれて二十数年も経ってしまった。  迷いに迷って、結局は「そ、うですか」と虫の鳴く音量で唱えることしかできなかった。  自己嫌悪でいっぱいになる。もっといい返しがあるはずなのに、どうしてかできない。こういう瞬間に、思い出したように思う。  やはり人間に向いていないのだと。  外の暗さに相応しく、鬱々とした気持ちで心がうつむきだす。湿っけたっぷりの息が体内から這い出てくる。よろしくない。これが完全に下を向くと、上を向くのに相当な時間がかかる。  気を紛らわすために、手を動かす。  考えずとも自然と壊すために手のなかのハンマーが動く。 「わあ、何回みてもひでえ音……てか手際がいい」 「慣れたらできますよ誰でも」  よくある話だった。  望まない形で生んだ子供をお金に変えた。  養育も愛情も渡されなかったのに、借金だけがまるまる受け継がれた。血縁だからというだけの理由で。  子供には、逃げ出す度胸も反抗する気力もなかった。けれど、不運なことに、壊す才はあった。幸運はないが悪運はあった。  それがモモナの半生だ。  つまりは、とんだとばっちりである。  それでも、死にたいと思うほどではなかった。仕事をすれば、痛めつけられることはなかったから。それに死ぬのも面倒なのだ。楽に死ねやしないから。  だったら、楽に生きるほうがまだましであった。  そんな天秤にかけたおざなりなシーソーの結果が、いまの生活。 「ね、モモナさんって、名前どう書くの?」  脈略という言葉を知らないのだろうか。浮かんだ疑問は瞬く間に溶けていく。  知らないのだろうな、きっと。 「数字の百に、名前の名……ですけど」 「へえ、かっけーね」 「そうですかね」  人間から肉片へと変わる不協和音のなか、朗らかな声が言う。 「うん、なんか、なんにでもなれそうじゃん」  いちばん似合わない言葉だった、喉がつまる。ひととき酸素がなくなった気がした。 「チ、ヒロくんは、どこへでも行けそうですよね」  んん、とマスクのなかで唾を飲み込んだ。口のなかがざわついている。  この子といると、喉が痛い。  普段こんなにも話すことはないから。  「ンー、さすがにブラジルとかはむりだけど」とチヒロはきょとりとしたあと、すぐに微笑みが灯る。 「行きたいとこあったら俺に言ってみて」  ひりつく声帯の痛みは、たぶん幻ではなかった。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

150人が本棚に入れています
本棚に追加