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その日、なぜか、ひょんなことからネイルを塗られることになった。
「いやなぜ……?」
「モモナさんあんま動かないで」
「アッ、ハイ。すみません」
咄嗟にでた謝罪と共に頭を下げかけて、「あ、動かないでって」とまたもや怒られる。
反射で、再びすみませんと出かかった。
ごくん。どうにか飲み込む。
謝罪と頭を下げるのはもはやセットで体に染み付いている。そういう条件付けがされている。自分ではどうすることもできないものであった。
まさしく何も言えねえ状態であったので、大人しく口を縫い付けた。水分の足りない唇をぴったり合わせておく。
すん、と鼻を啜る。ネイル特有の、独特の匂いがした。ちょっと甘ったるい薬品臭。
なぜこんなことになったんだったか。
いや、ほんとうにどうして?
頭のなかは慌ただしく、疑問と緊張と小さじ程度の不満でぎゅうぎゅうである。なのに体はちっとも動けない。左手はチヒロに掴まれている。
体育座りのまま、右腕で足を抱えた状態で停止状態だ。自分の体であるのに主導権はなかった。電源の入ってないロボットみたいな様相である。
することもなく、途方にくれる。
いや仕事はある。今日とて解体依頼が二件あるので。ただ、口も手も動かせないのでとりあえず手元を見おろして、近いなあと思う。
伏せた睫毛が長い。視界の上側にある肌色とピントの合わないそれらで認識する。
とうてい直視などできなかった。
チヒロの肌色はぴくりとも動かない。ただ一点を見ている。熱心に見つめられている先が、ただの自分の爪なのだから、変な感じだった。
『モモナさん、爪貸してくれる……?』
唐突だった。脈略などなかった。
急に何を言い出すのか。理由を聞こうとするも、尋ねようと動きかけた口は開くことはなかった。
明らかにいつもとは雰囲気が違ったのだ。
人懐っこい笑みはなく、どこか張り詰めたような空気。何かのひょうしで破裂してしまいそうだった。
針をさすことなんてできない。
指さきを伸ばすことさえも。
モモナができたのは、かき消えそうな声でこう申し出ることくらいだった。
『あの、なにとぞ爪は剥がさないでいただけると……』
数秒の間。ふ、と少しだけ空気がゆるむ。
ようやくわずかに笑みがかたどられる。ほ、と知らぬ間に細く息がこぼれた。
自然な動作でモモナの左手がすくいとられる。『ンな物騒なことしないって』と鮮やかな微笑に心臓が息をついた。
それくらい、チヒロの様子はいつもとは違いすぎて落ち着かないものだったのだ。
そうして今に至る。
途中、何色がいい? などといくつか質問されたが何でもいいので全て任せた。それからは塗装に夢中で、チヒロも黙々と作業している。
ほとんどが無言。
けれど、別に居づらさはなく、むしろありがたかった。
なぜなら、いつにもまして話せる気分ではなかったから。今朝どういうわけか、イッセイと出会ったばかりの頃のことを思い出してしまったのだ。
夢見が悪すぎる。
イッセイとの関係性はひとことで言い表しにくい。仲が悪いわけでも、険悪というわけでもない。何というか、噛み合わないというか。
互いにうっすらと苦手としている。それでも、嫌いではないのだ。けして好きでもないが。
「あー……」
ふいに、前からため息が落とされた。
しみじみと肺の底から吐き出されたものが皮膚を掠めた。びく、とわずかに肩が揺れてしまう。
あ、まずい。と身構える。
けれど、どういうわけか今度は叱られなかった。
そろりと窺う。チヒロは俯いたままで、表情は隠れていた。明かりのない室内は夜で満たされている。ささやかな月が塗りたての爪をぬらりと照らしていた。
閉じられていた唇がわずかに動く。掠れた声が、いつもとは違っていて、名前を呼ばれたのだと咀嚼するのに二秒遅れた。
聞こえてないと思ったのか「……モモナさん」とふたたび呼ばれる。確かめるように、さっきよりは輪郭をもって。慌てて、はい? と答える。
それが合図みたいに、伏せられていた顔が引き上がる。
目が合う。こまかく揺れる瞳に小さく驚く。
チヒロの目尻が下がる。「ごめん」と呟かれた。何の謝罪かさっぱり分からない。え、と空気に混じりかけた音は、特大ため息に上書きされた。
「今日ちょっとむかつくことあって、ごめん。あーくそ言い訳……俺、今日めっちゃいやな態度……ハ〜〜モモナさんほんとごめ……え、なにその顔」
「え」
怒涛の謝罪と弁明がぴたりと停止した。
チヒロは目を瞬かせる。ひどく怪訝そうだ。たどたどしく動く唇も。至近距離なのでよく分かる。
ただ分からないのは、言葉の意味だけだった。
何だろうか、その顔とは。
「なんでそんなびっくりして、……てかちょっとうれしそう?」
「えっ」
そんなばかな。嘘みたいに、思わずぺたぺた顔を触ってしまう。
その際液体のようなものが頬についた気がする。気がするというか恐らく、ついた。
とはいってもそれどころではないので、瞬時に頬から手を離し膝上に乗せる。しまったと思うも手遅れだった。これでは、隠すつもりない。
心当たりがあると言ってるようなものだ。
「モモナさん?」
「いえ、これはべつに……」
強請る視線が真正面から突き刺さる。
左手もぎゅっと握られてしまって、退路がない。いつのまに掴まれたのか。ついさっきまでチヒロの手は彼の膝にあったはずだ。冷たい指先が握り込まれた。
チヒロも体温が高いわけではないらしく、ぬるい体温が分けられる。
「……い、やほんとに、」
「どうしたの」
「ほんとうに、たいしたことじゃなくて」
「ン?」
柔らかく促される。退路はやはりなかった。
観念して、重たい口を動かす。
「その、」
「うん」
「チヒロくんも、」
「うん」
「……むかついたりするんだなと」
「えっ? そりゃしますよ。ふつうにめっちゃ」
何を言ってんだとばかりにチヒロが目を剥く。
当たり前だよと呟かれる。それはそうだ。当然だ。
その当たり前に、モモナは驚いたのだ。
この子にも苛立ちや怒りとかの感情があったんだなと。自分の前では、いつも笑っていたから。
もちろんそれ以外の感情もみることはあった。それでも、苛立ちなどの感情はみたことはなかった。
だから、チヒロも心が波打つという、当たり前のことにひどくびっくりしたのだ。
チヒロがやや裏返った声で「エッ、モモナさんて、俺のことなんだと思ってたの?」と小さく叫ぶ。何といわれると悩む。ううむと呻く。心のなかで顎に手を当てて考える。
何なのだろう。自分はこの子をどこに位置付けているのだろう。
はて、と疑問を握りしめたまま、答えを求めてチヒロを見た。狭苦しいテーブルに頬杖をついて、まん丸な月のような眼差しでこちらを眺めていた。
チヒロのほうがちょっぴり目の位置が高かった。不意に納得感で満ちる。これだと思った。
何となく、この高さだと思うのだ。
神さまだとは思っていない。ただ自分とはまるで違ういきもののような位置に、チヒロはいるのだ。
だから。
「それが、ちょっとだけ」
改めて認識して、この子も人間なんだなと。自分と同じ。そのことが、ほんの少しだけ。
「その、……微笑ましくて」
嬉しくて、とは言えなかった。
「ええ、俺が怒ったりすることが?」
「はい」
「ふうん、そっかあ?」
よく分からないという顔で、それでもチヒロは頷く。ひどく曖昧な首肯だった。
こういうところだと思う。
この子を突き放しきれないのは。こういったとき、否定の言葉で切り捨てないところに、勝手に救われた気になる。
首を傾げていたチヒロが、まじまじとこちらを見た。そうしてなぜだか、にこりと頬をゆるめる。これにはぎょっとして、こちらが首を傾げる。
え、急になぜ笑う?
「いま、私は何を笑われたんでしょうか……」
「かわいいなあって」
一瞬、思考が停止した。次いで脱力してしまう。
「……い、や、かわいくはないですが」
「俺にはよく分かんないけどモモナさんが嬉しそうでいいなって」
甘やかな笑みだった。うっかりときめきかけた。
自覚して、途端に恐ろしさに塗り替わる。
チヒロのかわいいはやっぱり犬猫を愛でるときのものだったが、眼差しがやさしすぎた。どういう反応をすればいいのか。
正解が分からず眉間に皺が寄る。
とりあえず、少しだけ距離をとった。物理的に。
「なんでちょっと後ずさるんすか?」
「最近の子は手慣れててこわいなと」
「俺誰にでも言ったりしないんだけど」
「……こわい。ほんとに、刺されたりしないでくださいよ……」
あまりに、思わせずぶりすぎる。心外ですとばかりに、拗ねたふうな様子なのがまた。
「なに? モモナさん全然信じてくんないじゃん……アー笑われて傷ついたあ」
「あー……や、笑ってすみません」
じゃあさ、と悪戯めいた表情が向けられる。
そのまま、右手が差し出される。犬が飼い主に前足を差し出すように。
「俺のも塗ってくれませんか」
ゆるりと強請る目元。断られるとはまるで思ってなさそうな声だった。
ひくりと頬が引き攣った。改めて思う。
こりゃやっぱり刺されないか心配だな、と。
震える手で持ち手を摘み、塗っていく。できるだけ、ムラなく。息を止めてしまうのはしかたがない。藍色。ブルーベリーみたいな色だった。
夜だなと思う。
開け放たれた窓の向こう側、空にずっと伸びているものと同じように見えた。塗り重ねていくごとに濃く、深くなっていく。うん、ますます似ている。
あと、他にもどこかで見たような。見なかったような。はてどこだったか。記憶をたどろうとして、中断する。
そんなことより、いまは集中せねばならない。
はみださないように、慎重に。
ところがそれが逆効果だった。意識すればするほど、指先が小刻みに波打つ。そうすると爪からちょこちょこずれては、甘皮まで藍色に染まる。これには、ぐ、とモモナの目つきが鋭くなる。
どうなってんだこれは。こんなにも全神経を注いで行っているというのに、ぶれるわずれるわはみ出る。
十分ほどかけて、ようやく親指を塗り終えた。
何度心が折れかけたことか。正直、三回くらいは折れた。そのたびに修復して、余計にはみ出し悪化させ、それでもどうにか終えたところで嫌でも気付いた。これは自分が問題なのだと。どうやら細かい作業は向いていないようだった。
どうやらというか、確実にそう。
二十五年目の発見に、悲しくなる。二十四年間気付かずにいられたのだから、そのまま知らぬままでいたかった。
モモナを襲ったのは、悲しさだけではない。不甲斐なさでいっぱいになった。
「おー、モモナさんすご。うますぎ。才能ある」
理由は、これである。
幼児か何かと思われてるのだろうか。目の前からぽんぽんと褒め言葉が飛んでくる。すん、とモモナの目から光が失せる。やめてほしい。どうみても才能からかけはなれている出来栄えだ。
というかちょっと口を閉じて欲しかった。集中できないので。文句はどれもこれも、心のなかに浮かんではすぐに溶けていく。
「いいね、筋がいい」
なぜって、構ってられないのが現状なのだ。
せめて黙々と塗っていくしかない。慣れない作業中に口を動かせば、これ以上にひどいありさまになる。間違いない。確信があった。
他人の爪を剥がすことはあっても、塗り重ねることなんて生まれて初めてなもので。
息苦しさに、ようやく深く呼吸をする。鼻から器官をすべり落ち、肺いっぱいに広がるのは甘ったるい匂い。
はじめは鉄臭さよりはよいかと思っていたが、いまではすっかり忌々しさの象徴である。次いで、またもや光の速さで甘やかな賛辞が鼓膜にぶつかる。
「モモナさんだんだんスピードまではやくなってない? なに? 天才じゃん」
ようやっと、薬指まで塗り終えたところだ。親指から薬指までの所要時間はだいたい四十分強。
しかも、どう見たって、はみ出し放題である。
「すごいよ」
舌の上がもごついた。あまりにも真っ直ぐすぎて、もてあます。どんな顔で言っているのだろう。ちょっぴり気になり視線だけ動かしかけて、やめた。
見てしまえば、何かが後戻りできなくなるような気がした。
最後の小指を塗り終えたところで、ほっと肩から力が抜けた。やっと、おわった。脱力してそのままテーブルに突っ伏す。一生分の集中力を使った気がする。いや比喩ではなく。
疲労具合でいえば、本当にそう思えた。
ぺたりと頬に触れるテーブルの冷たさがちょうどよかった。隣では、チヒロが感嘆の声をあげながら眺めている。塗りたてのはみ出し放題の爪を、だ。
ちらりと横目で見る。そうかと納得した。
既視感の正体。羽の色と似ているのだ。夜に紛れる色をぼうっと眺める。
「……気にならない?」
「え、と?」
いったい何が。主語のない言葉に反応できないでいると、ゆるやかに続けられた。
「ンー、俺が何にむかついたのかとか」
この部屋のように、ひどく静かな声だった。
遅れて思考がようやく動きだす。チヒロが突然爪を貸してと言い出した理由。不機嫌さの原因が、気にならないのか。そういう問いだった。
なるほど、と頷く。主語は分かった。
分かったことで、余計に混乱した。
言葉だけ聞くと、聞いてほしいというふうに思える。でも、と思う。いつかの、淡い記憶がひるがえる。戸惑うようで、困ったふうな表情がやけにこびりついている。
『や、違くて、嬉しいってこと。これまで何回かばれたことあったけど、みぃんな根掘り葉掘り聞いてきたからさ……あれ、これ自意識過剰っぽい?』
視線は交わったまま、数秒沈黙が続く。
はくり、と乾ききった唇が微動する。何か言わなければ。そう思った。
思うのに、言葉は呼吸に変わる。
ややしてチヒロが笑った。ごめん、と上がった口角が呟く。苦しそうな笑みだった。何も分からなかった。何がこの子をそんな顔をさせているのか。何に謝っているのかも。
「前と言ってること違うんだけどさあ、でも嘘じゃなくて。嘘じゃないんだけど……うん、あのときは、ほんとにそう思って――」
思ったんだけどなあ。
おかしいとばかりに眉を寄せる。自分でもよく分かってないようだった。困惑の色を載せていた。
それでも、どこか自分に確認するように言う。
「うん最初はさ、興味もたれないのが嬉しかった。そう嬉しかったんだよね。なのに、なんだろ、ちょっとさびしい?」
さびしい。もう一度、心のなかで唱える。
さびしい。さびしいってなんだっけ。ちょっと自信がなくなる。ええと、つまり。
「つまり……?」
「うんだからさ、もっと踏み込んできてほしいといいますか」
踏み込む、とは。
「はあ、ふみこむ」
「ンーまあつまり、モモナさん」
「あ、ハイ」
反射で返事をして、息が詰まった。二つの眼球が一直線に注がれる。
「俺にもっと興味もってほしいってことですよ」
吸い込まれそうな瞳だった。
これは、まずい。理解するより早く体が動いた。するりと、体重が移動して後ろに逃げようとする。
逃げ切る前に左手が、ぐ、と握られた。
あ、まだ乾ききってないのに。
長い指が、モモナの手首ごと掴む。手首の内側に藍色が滲んだ。すっぽり覆われてほとんど見えなくなった。
捕食されてるみたいだなあ、なんて呑気なことを思う。せめてもの現実逃避だ。モモナの十八番なので。けれど、一瞬で逃避は剥ぎ取られた。
気付いてしまったから。
逃げようとしているのに、不安などかけらもないことに。他人に握られているのに、折られるかもしれないなんてこれっぽっちも想像していない。
分かっている。分かっていたのだ、とっくに。
気付いていないふりをしていただけだった。
絆されている。こうして、ひとさじの恐怖もなく、体の一部を預けてしまうくらいには。
皮膚に触れるぬるい熱に意識が向きかけて、ようやくあれと思う。いつの間にか数秒、音が消えていた。そもそもどうしてこうなったんだか。
何だか馬鹿みたいな質問だったけれど、あまりに沈黙が痛い。なので、馬鹿を承知でおそるおそる尋ねた。
「え、と、なんで掴まれたんですかね」
「え、そりゃ……あれ、なんでだっけ。ンンなんか、なんとなく?」
きょとりと目を瞬かせている。本当に自分でもよく分からないみたいだった。
そのまま手が離されるかと思えば、なぜだかチヒロはまじまじと見おろしている。何をそんなに見ることがあるのか。視線を辿って、そこではっとする。
チヒロの手に掴まれたままの自分の手。
つまりチヒロとモモナの爪がすぐ隣にあるということだった。
綺麗に塗られた自分と爪とは違い、がたがたのチヒロとの対比がひどかった。単体であっても酷い完成度だと分かるのだ。
比較されるともう、何とも言えない。というか、ちょっと見ていられない。
気付いてしまえば、そわそわと視線が右往左往してゆらゆら泳ぐ。ぐ、と腕を引くもびくともしない。何だこれは。どうなっているのやら。接着剤か何かで固定されているのか。
というか、早急に離してもらえないだろうか。
「あの、チヒロくんそろそろ離していただきた」
「ね、ちょっと失礼なこといってもいい?」
「ハイ?」
「モモナさんの手、薄すぎない?なんかあれだ、生ハムみたい、そう生ハムだうん。ううん、ぺらぺらすぎて不安になるんだけど……」
「想像より全然めっちゃ失礼ですね……」
じい、と食い入るように見て言うのだ。
しかも、揶揄いや冗談でなく本気で不安そうなのが心にくる。
親指と人差し指で挟んで、むにむにされる。どうやら、厚さを確かめているらしい。続けて、出っ張った手の甲の骨が撫でられた。そわりと背筋がくすぐったい。あとちょっぴり不安になる。
普段、触られるようなところではないから。それでも不快ではないのは何だか労わるような、それだったからかもしれない。
野良猫の背を撫でるような、慎重さと穏やかさだった。
「こんなちっちゃい手のどこに力あんの? 謎いんですが」
ただの自分の手のひらを熱心に見つめて、すごいと言ってくる。何だか、本当にすごいものに思えてしまう。
そんなことあるわけないのに。
強烈な違和感だった。ハンマーやらペンではなく、綺麗に施された爪先がひどく不似合いなのだ。クリーム色だという。いまだけの乳白色。たいていは錆びついた鉄臭い血の匂いがこびりつく指が、甘さをはらんでいる。
どうにもいたたまれなかった。
逃げられぬならせめてチヒロの手に隠れようと第一関節を折りたたみかける。まあ、当たり前に失敗した。
不貞腐れた指がゆらゆらと揺れる。綺麗に塗装された爪先が明るくゆらめく。
「あ、じゃあ興味もってもらうために、さきに俺のこと知ってもらいます」
ひらりと大きな手が挙手。かと思えば、チヒロがそう宣言をする。ぎょっとするモモナ。けれど、一拍後には、すん、と目が遠くなる。
前後の文脈というものを知らないのか。いやと首をふる。知ったうえで、知らないふりをしていそうだったので。
「俺の特技はね、人の名前覚えんのと、ビニール袋綺麗にたたむのと」
「え、あの、大丈夫で」
「あとねえ、」と指折り数える。待っては聞いてもらえないようだったので、三秒で諦めた。やたらと長い指がテンポ良く折りたたまれていく。
「あと痛くしないのもわりと得意……あ、待って今のなし」
明らかに、やべという顔だった。物騒な言葉はまるっとスルーして、愛想笑いで返す。聞こえてないですよと。気遣いができる人間なので。
「えーと、あとは痛みなく心臓食べるプ、ロ……」
「痛みを与えないのはいいことですね……」
さすがに二度目は誤魔化されてはあげられなかった。
待って違う。機会があれば食べなくもねえけど進んで食べたりしないから! とチヒロが捲し立てる。弁明なのか自白なのかちょっとよく分からない。
とりあえず、「ウーンあんまり美味しくなさそう……?」と言っておいた。モモナの素直な感想だった。
なるほど、やっぱり食べることもあるらしいと。
「夢は、長生きすることかなあ」
「ああ……確かに、なんか、チヒロくんは元気なおじいちゃんになりそうですよね……」
不思議なことに、漠然とそう思える。この子ならほんとうにそうなるんだろうなと。
チヒロと出会って、さして時間は経っていない。何なら互いにろくな情報も知らないままだ。いうなれば水溜まりより浅い関係性である。
そんなモモナであってもそう思わせられるのだから、本当に不思議だった。
「あ、百歳まで生きるにすんね、俺の夢」
心臓が軋む。ちがう。自惚れるな。
浅く入りかけた亀裂を、どうにか押さえつける。キリのいい数字で、よくある指標だ。
だから、違う。
「……チ、ヒロくん、なら」
違うということを確かめたくて、口が勝手にうごめく。
「チヒロくんなら……百二十歳まで、生きれそうですけどね」
「や、百歳がいい。だってモモナさんの百じゃんね」
浅ましい魂胆で吐き出した確認は、あっさりと殴られた。
あっけらかんとした口調だった。だから分かってしまう。どこにも綻びなんてないとばかりに、何の衒いもなく、それだけの理由なのだと分かってしまった。
たまらなくなって、両膝に顔をくっつける。
見ていられなかった。強制的に暗闇に逃げ込んだ。けれど、すぐさま逆効果だと気付く。視覚情報がないぶん、恐ろしさと困惑で思考が埋め尽くされる。
怖い、と思う。
たぶん、どうすればいいのか分からないからだ。生まれてこのかた、こんなにも明確な好意を渡されたことがないから。例えそれが、打算のうえで作られたものであったとしても。
そうであってほしいと思った。
そうであってくれと無様に願った。
無意味だと分かっているのに、願うことくらいしかできない。
「……ひゃ、くさいまで、」
捻り出した声は掠れていた。
われながら酷い囁き具合である。相手に届けるつもりがない気がした。
変わらず顔は上げられないままだ。
いつだって、この子の前では俯いている気がする。慣れた首の角度がその証拠だった。情けなくて膝に鼻先を埋める。摩擦で鼻の頭が燃えた。やんわりと血の匂いがした。
「ウン?」
「百歳まで、生きてください」
「うん? うん。おっけい任せなよ」
「言いましたね。絶対ですよ」
「ええ、どしたの。モモナさんがそこまで言うなんて珍しいね? いいよ何なら約束しちゃう?」
冗談で差し出されたであろう小指。
やめたほうがいい。そう小さじ程度に思う。思うだけで、結局自分の指は縋りついていた。まったくよくなかった。乾ききった笑いをどうにか噛み砕く。それでも吐き出しそうになって、ゆるりと線を結んだ。伏せた顔をいいことに、瞳は細めたままだった。
ほんとうに、笑ってしまう。
この子の前ではなけなしの自制心も欲望に押しつぶされていた。だめだな。だめすぎる。ほとほと呆れてしまう。
モモナのなかには、天使などいないので咎める声はない。もうずっと、良心は沈黙している。
ややして、あれと思う。反応がないのだ。
うんともすんとも。もしや引かれたのかもしれない。やっぱりただの冗談であったのに、ほんとに指切りなんてものしてきたから。そりゃドン引きされてもむりはない。「ウワーマジでしてきた、歳考えなよ」とか思われてるかもしれない。
あ、ちょっとしんどすぎるかも。イマジナリーで既にメンタルは瀕死状態である。サ、と血の気がひく。
「ね、モモナさん」
「あ、あの調子乗ってすみま」
「ありがとね」
「え」
「うん、よし、指きった」
チヒロは少し目を見開いて、けれどゆるりと口角を上げた。結んだ約束が柔らかに揺れる。綺麗な乳白色と、剥がれ放題の藍色が線を描いていた。
乾ききってない状態であちこち触ったせいで、ネイルをしたというよりは、手にお絵かきしたと言われたほうがしっくりくる状態だった。
「ごめんなさい」
「え? なんで謝んの、乾ききってないのに動かしまくった俺が悪いし」
「……ごめんなさい」
チヒロは気付いていない。ずるいことをした。勝手に利用して約束させた。だけど後悔してないのだから、どうしようもなかった。
戸惑っている空気がして、誤魔化すためにうっすらと口を動かす。誤魔化すことも得意でよかった。
「ただ刺されないようにだけ、ほんとに気を付けて、ほんとにマジで……」
「ねえだから刺されないからね。てか刺されたくらいじゃたぶん死なないし」
この瞬間、
「死にたくないし」
チヒロは安心になった。
甘ったるい薬品臭に脳が痺れる。死にたくない。抵抗なく鼓膜に溶け込む。そのままずっと溶けていてほしいと思った。
まるで、祈りみたいで気色悪かった。
掴まれていない方の手を握り込む。丸い鋭さのない爪が少しだけ皮膚にぶつかった。
どうしてこんなにも安心してしまったのか、ようやく分かった。たったいま気付く。
「……ほんとうに、まじで、いい夢すぎるなあ」
絶対に、こちら側には来ないひとだからだ。
この先何があっても、モモナを優先したりしない。何よりも自分の命を最優先してくれるからだ。なぜなら約束をしたから。
それが、ほんのちょこっとだけ寂しく、とびきり嬉しくてたまらない。
「え、そお? ふつうじゃねえかな?」
「ふつうじゃねえですよ」
「ええ? ウーン、まあ、そうかな」
「とても、めちゃくちゃとんでもなくいい夢ですよ」
そっか? とチヒロが曖昧に呟く。ひそりと口元が笑ってしまった。しょうがないと思う。
どれだけ説いても、言葉をつくしても届いてる気がしない。たぶんそれはしょうがないことなのだ。誰だって、当たり前に無意識にできていることなんて、気にも留めない。
なぜなら、チヒロにはすごいことではないから。
ただ、この子のふつうが、モモナにはとてつもなく眩しいというだけなのだ。
「ね、ちょっとは俺に興味もってくれた?」
まろやかな瞳が尋ねてくる。これには眉が下がる。そもそも、チヒロに興味がないわけじゃない。そう前にも言ったがするのだが。かなりしどろもどろではあったが。
そのようなことを伝えると、ウウンと唸るようにぼやく。困ったとばかりのため息が空気に溶けいく。
「興味もってもらうって、どうすればいんだろ」
そっと、手のひらがようやく離される。けれどとっくにぬるい熱はモモナに移っていた。
「どうもしなくていいですよ」
「それ勝算ないってこと? ン〜むず」
「や、ないわけじゃなくて……ほんとうにいいんですって」
だってもうきっと、捕まえられている。
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