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■ 「チヒロ」が「恋」だと仮定する。  ばき、ごりゅ、めき、ぼき。  不協和音をバックミュージックに、ここ最近の命題をこねくりまわす。ちっとも心地よくないがちょうどよかった。浮ついた思考との釣り合いがとれている。  うんうんと頷きかけて、はたと手が止まる。  一拍おいて苦笑が滲んだ。こんな状況で考えることではなかった。  血塗られたハンマー。  へこんだ頭部。  ブルーシートに薄くたまる赤黒い海。  頭の片隅にて冷静な部分がときたま刺してくる。が、まるっとスルーした。いちいち構っていては進まないからだ。  ペンチに持ち替えて、そのまま口の中に先端を突っ込む。続けて、えいやと前歯から順に引っこ抜く。ごりごりと、いくらか前後に揺らせばぽろりと抜ける。  人間の永久歯はだいたい三十二本。  なので、これをあと三十一回繰り返す。モモナの手付きは無駄がなく、よどみないものだ。  われながら思う。手慣れてんなあと。  爪をひとつ塗るのに、数分もかけて震えていた手とは同じとは思えない。それくらい馴染んだ動作だった。 「……こいってなんだっけ」  片手間に、考えごともできてしまうくらいには。  恋。コイ。こい。  恋と仮定したみたのはいいけれど、どうなのだろう。本当にそうなのか。本当に? 本当とはどこにあるんだったか。  考え始めて数秒、急速に思考回路が鈍る。哲学めいたものへと転換しはじめてしまった。  何ともまあとっちらかった脳内だった。  やや遅れて、ちがうそうじゃないとずれに気付く。モモナが考えるのは、居場所などではなく恋についてだ。かぶりをふって、どうにか軌道修正する。  脱線するのはこれが初めてではなく、毎度のことだった。なのでまったく結論が出ないまま、ぐだぐたな議論を重ねている。  ふわふわとした浮ついた気持ちとどうしようもない寒気。チヒロのことを考えるとき、発熱したときみたいな、真逆のものが同時に存在する。  はたして、これが恋とかいうものなんだろうか。モモナにはさっぱり分からなかった。  一般的な物差しを知ってはいる。  けれど、自分のこの感情が当てはまるのかが判断できなかった。あまりにも世界との認識のずれが大きすぎる。  悩む間にも、ごりごりとまた一本抜けた。密度を減らしていく口内。ぼうっと見下ろす。ふ、とマスクの下で自嘲が溢れた。少なくとも、こんなことしながら考えることではなかった。  そうでなければいい。そう思う。  これっぽっちも信じていないから。信頼していないからだ。寒気の正体は、恐ろしさだった。自分への信用のなさだ。たぶん、確実に、きっと。  恋だったとして。この際恋でなくても、チヒロという存在はとっくに――とっくに、 「……なんなんだろう」  重ったるくて、思考から中断した。  ゆるりと窓を見上げれば首がごきりと音を鳴らした。途端ぴたりとモモナの体は急ブレーキ。こりゃやばい。長時間下を向いていたので、急に動くな危険のアラートだ。  痛い。いや実際には痛みはないけれど、音が“痛い”の代表みたいなものなので反射で動きは止まるし、痛覚も悲鳴をあげてしまうのだ。  ゆうるりと数回首を動かして、再度ブルーシートをたどる。転がる包丁が目に止まる。見飽きた日用品。そのはずなのに、仄暗い考えが瞼の裏で揺れる。  いっそ、自分で終わらせてしまおうかなんて。  一瞬考えかけた案は、そのまま彼方へと飛んでいった。本当に一瞬であった。早々に手放した。  今さらぞっと鳥肌に襲われた。  自分の皮膚に突き立てたところを想像しただけで怖気が走る。普通に怖い。何より痛いのは嫌なので。  そうだ、臆病さだけをいちばん優先してきた。  だから今もこうしてモモナは何とかまだ生きている。  これまで、何事もタイミングがいちばん大事なのかと思っていた。たったいま手放したナイフも、ハンマーも、ペンチも。  日常のなかに、死ねるタイミングも道具もそこらへんにある。あるけど、多くのひとはそれを選ばないだけなのだろうなと思う。  と、ここまで考えて、ため息が出る。  それが何だというのか。  他人の理由を気にしても意味がないのに。モモナは彼らではないのだ。世間一般ではないので参考にならない。無意識に考えているということは、自分はその中にいると思っているのかもしれない。  そう気付いてしまって、絶望した。  傲慢さが気持ち悪い。思い上がるな。  そう言いつけるのに、モモナの脳はちっとも言うことをきかない。学習能力がなかった。ぽんこつなのか?ぽんこつなのだろう。ぽんこつだったな。自覚してちょっぴり落ち込む。  す、と視線が落ちていく。遺体を確認して、モモナの顔が分かりやすく歪む。  やってしまった。いや、まだいけるだろうか? いけてくれ、どうか。  一縷の望みをかけてハンマーを手の甲に狙いを定め、振り落とす。がん。石を殴りつけたような固い感触。ゆるりと肩から力が逃げ出した。ああやっぱり。安心ではなく諦めだった。  ですよね、と投げやりな気持ちである。  死後硬直。何とも初歩的なミス。  額に手をあてたい。何なら頭を抱えたい。脳内で『あーあ、やっちゃったね。どんまい』とイッセイの薄っぺらい声が通り抜けていく。せめてそれらしい顔で言ってくれ。  小言は思っても物申したことはない。聞いてもらえないからだ。沈黙した室内がまるで遠い。  道理から背く行為は、とっくに業務化している。  なんで忘れていたのか。忘れられていたのだろう。骨を砕く感触。壊すために最適な動線。鼻をつく鉄臭さ。それらの全て、もう剥がれられないのに。  ハンマーを手放した。目線だけを床へとたらす。中途半端な肉の塊は、もう生活の一部だった。  ぼんやりと浮かべた。もしもを。もし、目の前に転がるのがあの子だったら。  ありもしない例えばの話ではなかった。かぎりなく未来に近い、距離と時間の問題だった。ありえない、などということはない。どこにも。  だというのに、思ってしまった。それは嫌だなと。  モモナはきっと、寿命では死ねない。  それ以前に、この先の生活もろくなものじゃないだろう。未来は過去からの延長線だ。くそったれな過去は引き継がれて、そのまま道は伸びていく。  いずれろくでもない死に方をしてこの世から離脱するのだ。客観的にそう思う。事実きっとそうなる。  死んだ後もモモナに逃げ場はない。  すべてをお金に換えられる。水底からたった一枚でも、あるならばあるだけむしりとる。喰いつぶす。こちら側の世界は、そういうふうに成り立っている。たとえ通りすがりに言葉を交わしただけの相手であっても、つまりは、いちゃもんなのだ。  反省ではなく、後悔ばかりが積み重ねつづけている。  そうなったとき、たぶんモモナの頭に浮かぶのはあの子のことな気がした。自分は後悔するんだろう。そんな権利もないのに。  嫌なことを先延ばしつづけている、延々と継続切符を定期購入しているのがいまだ。予感めいた現実はすぐそこにいる。  倫理観なんてものはすでに終わっている。それでも底辺をえぐるようなことはしたくない。ないなりに、線引きはある。  なけなしの善性だった。 「……ぜんせい?」  は、と笑いかけて失敗した。口角が迷子になってゆるりと力なく落ちる。気持ち悪い。善性?   どの口で言ってるんだろうか。怖気が全身を通り抜ける。風が寒々しく死臭を部屋に巡らせる。  愕然とする。まだ、正しくありたいと思っていた。あれると思っていたことに。修正できないのに。とっくに手放したはずなのに、諦めきれずに、指さきが伸びていた。焦がれていた。自分がいちばん、気持ち悪かった。  それでも、どうしても思ってしまう。  認めてしまえば、もうだめだった。  目を逸らせそうない。 「……やだな」  チヒロをお金に換算したくない。あの子だけは。  だから、
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