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「チヒロ」が「恋」だと仮定する。
ばき、ごりゅ、めき、ぼき。
不協和音をバックミュージックに、ここ最近の命題をこねくりまわす。ちっとも心地よくないがちょうどよかった。浮ついた思考との釣り合いがとれている。
うんうんと頷きかけて、はたと手が止まる。
一拍おいて苦笑が滲んだ。こんな状況で考えることではなかった。
血塗られたハンマー。
へこんだ頭部。
ブルーシートに薄くたまる赤黒い海。
頭の片隅にて冷静な部分がときたま刺してくる。が、まるっとスルーした。いちいち構っていては進まないからだ。
ペンチに持ち替えて、そのまま口の中に先端を突っ込む。続けて、えいやと前歯から順に引っこ抜く。ごりごりと、いくらか前後に揺らせばぽろりと抜ける。
人間の永久歯はだいたい三十二本。
なので、これをあと三十一回繰り返す。モモナの手付きは無駄がなく、よどみないものだ。
われながら思う。手慣れてんなあと。
爪をひとつ塗るのに、数分もかけて震えていた手とは同じとは思えない。それくらい馴染んだ動作だった。
「……こいってなんだっけ」
片手間に、考えごともできてしまうくらいには。
恋。コイ。こい。
恋と仮定したみたのはいいけれど、どうなのだろう。本当にそうなのか。本当に? 本当とはどこにあるんだったか。
考え始めて数秒、急速に思考回路が鈍る。哲学めいたものへと転換しはじめてしまった。
何ともまあとっちらかった脳内だった。
やや遅れて、ちがうそうじゃないとずれに気付く。モモナが考えるのは、居場所などではなく恋についてだ。かぶりをふって、どうにか軌道修正する。
脱線するのはこれが初めてではなく、毎度のことだった。なのでまったく結論が出ないまま、ぐだぐたな議論を重ねている。
ふわふわとした浮ついた気持ちとどうしようもない寒気。チヒロのことを考えるとき、発熱したときみたいな、真逆のものが同時に存在する。
はたして、これが恋とかいうものなんだろうか。モモナにはさっぱり分からなかった。
一般的な物差しを知ってはいる。
けれど、自分のこの感情が当てはまるのかが判断できなかった。あまりにも世界との認識のずれが大きすぎる。
悩む間にも、ごりごりとまた一本抜けた。密度を減らしていく口内。ぼうっと見下ろす。ふ、とマスクの下で自嘲が溢れた。少なくとも、こんなことしながら考えることではなかった。
そうでなければいい。そう思う。
これっぽっちも信じていないから。信頼していないからだ。寒気の正体は、恐ろしさだった。自分への信用のなさだ。たぶん、確実に、きっと。
恋だったとして。この際恋でなくても、チヒロという存在はとっくに――とっくに、
「……なんなんだろう」
重ったるくて、思考から中断した。
ゆるりと窓を見上げれば首がごきりと音を鳴らした。途端ぴたりとモモナの体は急ブレーキ。こりゃやばい。長時間下を向いていたので、急に動くな危険のアラートだ。
痛い。いや実際には痛みはないけれど、音が“痛い”の代表みたいなものなので反射で動きは止まるし、痛覚も悲鳴をあげてしまうのだ。
ゆうるりと数回首を動かして、再度ブルーシートをたどる。転がる包丁が目に止まる。見飽きた日用品。そのはずなのに、仄暗い考えが瞼の裏で揺れる。
いっそ、自分で終わらせてしまおうかなんて。
一瞬考えかけた案は、そのまま彼方へと飛んでいった。本当に一瞬であった。早々に手放した。
今さらぞっと鳥肌に襲われた。
自分の皮膚に突き立てたところを想像しただけで怖気が走る。普通に怖い。何より痛いのは嫌なので。
そうだ、臆病さだけをいちばん優先してきた。
だから今もこうしてモモナは何とかまだ生きている。
これまで、何事もタイミングがいちばん大事なのかと思っていた。たったいま手放したナイフも、ハンマーも、ペンチも。
日常のなかに、死ねるタイミングも道具もそこらへんにある。あるけど、多くのひとはそれを選ばないだけなのだろうなと思う。
と、ここまで考えて、ため息が出る。
それが何だというのか。
他人の理由を気にしても意味がないのに。モモナは彼らではないのだ。世間一般ではないので参考にならない。無意識に考えているということは、自分はその中にいると思っているのかもしれない。
そう気付いてしまって、絶望した。
傲慢さが気持ち悪い。思い上がるな。
そう言いつけるのに、モモナの脳はちっとも言うことをきかない。学習能力がなかった。ぽんこつなのか?ぽんこつなのだろう。ぽんこつだったな。自覚してちょっぴり落ち込む。
す、と視線が落ちていく。遺体を確認して、モモナの顔が分かりやすく歪む。
やってしまった。いや、まだいけるだろうか? いけてくれ、どうか。
一縷の望みをかけてハンマーを手の甲に狙いを定め、振り落とす。がん。石を殴りつけたような固い感触。ゆるりと肩から力が逃げ出した。ああやっぱり。安心ではなく諦めだった。
ですよね、と投げやりな気持ちである。
死後硬直。何とも初歩的なミス。
額に手をあてたい。何なら頭を抱えたい。脳内で『あーあ、やっちゃったね。どんまい』とイッセイの薄っぺらい声が通り抜けていく。せめてそれらしい顔で言ってくれ。
小言は思っても物申したことはない。聞いてもらえないからだ。沈黙した室内がまるで遠い。
道理から背く行為は、とっくに業務化している。
なんで忘れていたのか。忘れられていたのだろう。骨を砕く感触。壊すために最適な動線。鼻をつく鉄臭さ。それらの全て、もう剥がれられないのに。
ハンマーを手放した。目線だけを床へとたらす。中途半端な肉の塊は、もう生活の一部だった。
ぼんやりと浮かべた。もしもを。もし、目の前に転がるのがあの子だったら。
ありもしない例えばの話ではなかった。かぎりなく未来に近い、距離と時間の問題だった。ありえない、などということはない。どこにも。
だというのに、思ってしまった。それは嫌だなと。
モモナはきっと、寿命では死ねない。
それ以前に、この先の生活もろくなものじゃないだろう。未来は過去からの延長線だ。くそったれな過去は引き継がれて、そのまま道は伸びていく。
いずれろくでもない死に方をしてこの世から離脱するのだ。客観的にそう思う。事実きっとそうなる。
死んだ後もモモナに逃げ場はない。
すべてをお金に換えられる。水底からたった一枚でも、あるならばあるだけむしりとる。喰いつぶす。こちら側の世界は、そういうふうに成り立っている。たとえ通りすがりに言葉を交わしただけの相手であっても、つまりは、いちゃもんなのだ。
反省ではなく、後悔ばかりが積み重ねつづけている。
そうなったとき、たぶんモモナの頭に浮かぶのはあの子のことな気がした。自分は後悔するんだろう。そんな権利もないのに。
嫌なことを先延ばしつづけている、延々と継続切符を定期購入しているのがいまだ。予感めいた現実はすぐそこにいる。
倫理観なんてものはすでに終わっている。それでも底辺をえぐるようなことはしたくない。ないなりに、線引きはある。
なけなしの善性だった。
「……ぜんせい?」
は、と笑いかけて失敗した。口角が迷子になってゆるりと力なく落ちる。気持ち悪い。善性?
どの口で言ってるんだろうか。怖気が全身を通り抜ける。風が寒々しく死臭を部屋に巡らせる。
愕然とする。まだ、正しくありたいと思っていた。あれると思っていたことに。修正できないのに。とっくに手放したはずなのに、諦めきれずに、指さきが伸びていた。焦がれていた。自分がいちばん、気持ち悪かった。
それでも、どうしても思ってしまう。
認めてしまえば、もうだめだった。
目を逸らせそうない。
「……やだな」
チヒロをお金に換算したくない。あの子だけは。
だから、
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