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 だから、 「あの、だめもとなんですけど、私を殺してくれませんか」  コンビニ袋がガサリと音をたてる。  その音に釣られて床から視線を剥がし、持ち上げる。そうして見えた顔にぎょっとした。  チヒロはぽかんとした顔をしていた。  丸々と目を見開いている。三秒くらい経っても瞼も眼球も動かなかった。瞬きを忘れているらしかった。  何を言われたのか理解していないようだ。ようだというよりは、見えたのだ。言われたことが分かりません、ローディング中のマークがきちんとチヒロの顔いっぱいに浮かんでいた。  言葉を理解するのにタイムラグがあるときがある。恐らくそれなのだろう。そう予想して、分かると深く頷く。ああと納得の息がもれる。肩の力がわずかにゆるんだ。  モモナもよくあるのでよく分かるのだ。  なのでしばし待つことにする。  五秒、十秒、二十秒。一分。  待てども反応はなかった。え、もしや無視? 無視された? これにはさすがに不安になってくる。  そろりと様子を窺って、またもやぎょっとする。  チヒロはさっきと全く同じ体勢のままだった。  ベランダに仁王立ちのまま。手にはビニール袋をこちらに差し出しているままだ。今日とて大きな羽の角度さえも同じだった。  月を背にしているので表情は確認できない。それがすこし怖くもあり、同時にほっとしてしまった。  ええと、と口ごもる。どうしたのだろう。  いや本当にどうした? どうすればいいのやら。停止ボタンを押されたみたいに、ぴくりともしないので不安になる。  もしや聞き取れなかったかもしれない。それか声量が足りなかったのかもしれない。  元からモモナの声のボリュームは大きい方ではないし、何なら最小レベルの自覚はあった。少々賑わう店先で注文を伝えても、八割は困った顔で聞き返されるので。  うんうんと頷くモモナ。頷くところではない。  イッセイがいれば「いやそうじゃないっしょ」と笑いながら訂正するだろうが、あいにく居ないので勘違いは放置された。  そういうわけで復唱する。 「……えーと、あの、チヒロくん?」  言い直すのも慣れっこだ。  ただ、どうしても声が喉に引っかかる。 「私を、殺してくれませんか」 「……え」 「あ、聞こえてた。よかった」 「よくないよくない。え、ちょっと待って……え?言われた意味が」  ぱ、と手のひらが向けられる。待っての意。  大きくて薄い、なまっ白い手だった。生ハムみたいと言われたことが脳裏によぎる。ならば、この手は厚切りハムみたいだった。  ぺらぺらのお安い三連パックではなく、ちょいお高めの美味しいやつ。  なんて意識の端で思う。モモナは混乱していた。  ちっとも顔には出てはいないが、これ以上ないほど切羽詰まっていた。なにせ、一世一代の言葉を口にしたのだ。いたしかたない。  それに、このときのモモナの脳の処理速度はドブであった。なぜなら五徹目。  つまりは、寝不足である。  普段であれば会って早々『よければ殺してくれ』などというトチ狂った提案をされて混乱しているのだと気付くし、そもそも実際に伝えることなどしていない。  なので、夢と現実の境目がおぼろげなまま、重たい瞳で見つめた。  やけにゆっくりと手が下ろされる。  ようやく脳内からハムの単語が剥がれていく。開けた視界。当然チヒロの顔が映るところを、咄嗟に、上着へと焦点をあてた。今日とて鮮やかな真っ赤なジャンバーだった。  ぼやけたやや上方向からこちらを見つめる視線が落ちてくる。混乱しつつも、それはひたりとモモナの鼻筋に触れた。 「……な、んで。なんかあった?」 「なんで、……なんでかあ」  焦りで喉が狭まる。どうしてだろう。理由を聞かれることは別に予想外ではないのに。  どうしてこんなにも狼狽えているのか。ますます視線を下げる。視界はとうとう自分の足だ。  いつだって逃げてばかりだなと思う。  今も、過去も未来も。きっと変わらないのだろう。変われない。たぶん、死んでも。それでもせめて、今この言葉だけは逃げないようにしたかった。 「……な、」  開いた唇が細かく揺れた。 「んというか。なにかあった……と、いうよりは」  現実とは思えなかった。たどたどしく喋る声が、自分のものとは思えなかった。 「もう……いやになったというか、」 「うん」  何かあったわけじゃない。けれど、もうずっと“あっている”ともいえる。それをそのまま伝えても意味が分からないだろう。だから言えない。  でも、確実に、ただひとつ言えるのは。 「うん、もう、いいかなあって思ったからですかね」  ありもしない未来に怯えているということだ。  いつ、この子が遺体となって目の前に来るのか。いってしまえば被害妄想だった。  自覚はある。考えたところで仕方ないと、分かっている。分かっていた。それでも、確定できない以上、どうしても脳に不安が貼り付いている。  渦巻いている。気付けばモモナの思考を占拠して、主張してくるのだ。  目の前に横たわるの見知らぬ顔が、チヒロにすり替えられる。  いない未来がこわくなった。惜しくなった。目まぐるしく理由が浮かんでは溶けていく。結局どれも音にはならなくて、頭のなかだけでごちゃまぜになっていく。 「……もともと、向いてないんですよね。こんなの」  できるだけ明るく声を出したつもりだった。けれどどうだろう。失敗した気がした。へらりと頬が引き上がる。愛想笑いで誤魔化しを重ねた。  そうでもしないと、もう声が出なくなりそうだった。 「効率悪くて、もたついて、そのせいで睡眠時間をけずって」  できていない理由をあげる。自分がだめだということを並べ立てると、足元が揺らぐ。  つまりは、 「だからもう向いてないなって」  生きるのが向いていないのだ。  何で生きているんだっけ、なんて。とうとうそんな無意味な疑問がぷかりと浮かんでしまうので、何とか底に沈めようとするのだが、たいてい上手くいかない。浮力があまりにも強く、モモナの力はあっけなく負ける。 『モモナちゃんは、自分のこと、普通だと思ってるんだね』  いまなら分かる。あのときのイッセイの眼差しが。たぶん、愚かしかったのだろう。馬鹿だと思われたのだ。見て見ぬふりを続けていたことが、正気を保ったまま逃げていたことが。逃げられていたことが。  チヒロの静かな呼吸音が聞こえる。  困惑していることが分かる。たぶん、かけらも伝わっていないのだろうと思う。  こんなにも苦しくてのたうち回っているのに、ちっとも伝わっていない。何だか、すべてをぶちまけてしまいたくなる。嘘だ。そんなもの知られたくないのに。  必死に隠そうとして口が勝手に動く。 「それに、」  ぺらぺらと言い訳を唱えてしまえて、嫌になった。 「チヒロくんも目を付けられるかもしれないですし……だからもう終わらせたくなって」  さもチヒロの身を案じているような言い方だった。浅く笑ってしまう。  さびついていく。言葉にしないと、感情も苦しさもあるはずだったのに、確かにあったはずのものがどこかに消えていく気がした。  そっと見上げれば、チヒロの瞳が揺れた。  唇が淡く開いては、閉じ、何かを飲み込む。眉間にほんの少し皺ができる。あまり見ない顰めっ面だった。  やっぱりだめだろうか。だめだろうな。だめだろう。普通に考えて。肩から力が抜ける。  分かっているだめもとだったのだ。 「……すみません、やっぱり無理で」  すよね。  ふ、と諦めの息をつきかけたところで、ドデカいため息によって前髪が波打つ。  ぎょっとして顔をあげて、――後悔した。  いつになく真剣な目だった。何か確固たる意思が見えて、漠然とした不安になだれこまれる。  思わず一歩身を引こうとして、それより先に手首を掴まれた。目を見開く。ほんの一秒前までは、ベランダにいたはずのチヒロが室内に足を踏み入れてすぐそばにいるのだから。瞬く間に距離を縮められたのだ。  反射で手を自分のほうへ引いた。  逃すまいと力が込められる。触れる熱がぬるい。目の前にいるのだと、ようやく認識する。  いや、え、どうして―― 「モモナさん」 「は」 「いっしょにいたいっていったら困る?」  い、と呑み込みそびれた息が細く揺らぐ。  揺らいでしまったのが、よくなかった。すぐそばに淡い微笑みがあった。 「困ってんね……ウーンごめん、そりゃ困るよね困るかあ」  真っ直ぐに、ぶれることなく最短距離でモモナの額に落下した。変わらず腕は掴まれているまま。逃げ場がなかった。  でもさ、と動く言葉が同じ経路で落とされる。 「俺はまだまだモモナさんとこうやって話したいんだけど、どうすか?」 「どうって……」  どうって、なんだ。なにがだろうか。  なぞった声はびっくりするくらいか細かった。唇の端からこぼれて、床にぶつかることなく空気に紛れるくらいには、弱々しかった。  何を言っているのだろう。よく分からなかった。よく分からないなりに、何だかとんでもないことを言われたことだけは理解できた。 『俺はまだまだモモナさんとこうやって話したいんだけど、どうすか?』  何度か文章を繰り返して、意味をたどる。ゆらゆらと記憶が翻る。 『それに、チヒロくんも目を付けられるかもしれないですし……だからもう終わらせたくなって』  待ってほしい。これまで、 『もう……いやになったというか』  自分は彼に。 『あの、だめもとなんですけど、私を殺してくれませんか』  ――何を言った?  理解できてしまった瞬間、一気に血の気が引いた。ふやけていた思考が巡り始める。  重心がぶれた。ゆらりと、半歩後ずさる。足裏に触れるフローリングの冷たさはそっけない。いまに、意識が引っ張られて。  だから、ぼやけていた視界が、明瞭になってしまった。降り注ぐ眼差しが痛い。夜の風が前髪にぶつかり額を擦った。咄嗟に唇をかみしめる。もう意味などないのに。  吐き出した言葉は飲み込めない。時間は戻らない。何かの手違いで記憶を失ってほしかった。というか自分が失いたい。 「……す、みません」 「モモナさん?」 「ほんとうにごめ……あの寝ぼけてて、はは、わけわからないこといってすみません、嘘です。嘘だから」  嘘なのだ。嘘でなければならない。そうでなければ。だから、 「今日は、帰ってくれませんか」  支離滅裂だった。何を言ってるんだ。  自分でも分からなかった。触れる熱が怖くて手を引き抜こうとする。けれど、外れない。柔らかな拘束だ。そのはずなのに、どうしたって逃げられなかった。  掴まれている低い温度差が恐ろしかった。  自分の指先を包む少し大きな爪は不格好に色づいている。はみ出し放題の酷いネイルに、吐き気がした。喉が熱くなる。現実なんだと嫌でも突き付けられる。  せいいっぱい腕を引く。けれど、貧弱なモモナでは当然振り払えなかった。  例えモモナが屈強な体格であったとしても、たぶん、振り払えなかった。相手がこの子ならば、無条件で負けてしまう気がした。  ならば、と握られたままの状態で前へと押すも、やはり無意味だった。少しチヒロの上体が動くだけ。  チヒロはすぐ目の前のまま、距離すらも変わらない。 「ごめんね」  だから、よく分からない謝罪もはっきりと耳に入り込んできた。 「俺帰んないよ」 「……ど、して」 「そりゃ帰れないよてか帰りたくない」 「さっき言ったことなら、ほんとに違うので、だから気にしないでください」 「や、それはさすがに嘘じゃんね」 「嘘じゃないですって」 「モモナさん」  願うように呼ばれた。  耳を塞ぎたいのに、両手は変わらず掴まれたままなので使えない。誰でもいいから鼓膜を破いてくれと無茶なことを思った。  何の地獄だろうか。これは。  逃げ道を探して視線が彷徨う。開け放たれた窓に釘付けになる。風に揺られてカーテンがなびく。薄っぺらい白がゆらゆらと外へと踊り出ては不規則に戻る。穏やかな動きが何とも場違いだった。  す、と瞳がベランダへと惹きつけられる。  墨をたらされたみたいな空に、ぼんやりと柵が浮かんでいる。自然と重心はそちらへと吸い寄せられる。  普段なら恐ろしくてそんなこと思いつきもしない。けれど、いまなら、飛び降りれられそうだった。何だって良かった。 「ねえ、モモナさん」  ここから、遠ざかれるならば。 「ほんとに、ちが」 「無理に嘘にしないでいいよ」  きっぱりと穏やかに言い切られる。ひととき呼吸が止まった。は、と短く息が途切れる。  嘘にしないでいい? そんなわけがない。  だって、嘘にしなければならない。  そうでなければ――。  一瞬で思考が奪われる。気付きながらも、浅ましい逃走は押し流された。 「……ち、がいます」 「ン〜頑固だなあ。んじゃあ嘘でもいいよ。いいからさ、どうしてほしいか教えて」  ひたむきな眼差しに覗き込まれる。夜の光を押し込んだ目だった。あ、と悟る。逃げきれない。どうしてか瞼を閉じることもできなかった。  ふいに、疑問でいっぱいになった。どうしてこんなことになっているのだろう。  あまりにも現実味がなさすぎた。  ゆるく触れられた手の甲も、吐き出してしまったばかみたいな願望も。ただ瞬きをしても、見据えられた瞳は変わらないから、かろうじてこれが幻ではないことだけが分かった。  幻ではないことが苦しかった。 『どうしてほしいか教えて』  選択肢があるみたいな錯覚をする。  幻じゃないというなら。 「俺は、モモナさんといっしょにいたいです。でもそれは困るんだよねきっと」  じゃあこれは何だというんだろう。  何を言っているんですか。というか帰ってくださいって。話を逸らすことも、うやむやにすることもできた。なのに、口がたどたどしく答えてしまう。 「こ、まる」  ほんの少しだけチヒロの首が傾く。静かな首肯が返された。聞いているよと瞳が言う。  そうして、ゆったりと先を促される。 「ん、なんで困る?」 「そ、れは……」 「うん」 「……何にかえても、見捨てないって約束できない……だから、ごめん」  臆病で。差し伸べられた手を掴めない。差し出すことすら難しいのだ。  チヒロは肯定も否定もしなかった。  ただ「そっか」と頷きが降ってくる。声だけでは判断できなかった。軽蔑の色がつくと堪えられなくなりそうで、俯いた。  いつだって、感情は吐いて捨ててきた。  できるかぎり押し込めてきた。あるいは、ため息と一緒に噛み砕いてきた。持っていたって、どうにもならないから。なのに、チヒロはひとつひとつ拾い集めてくれるから、どうしようもなくなる。  この先、仮に、もしもチヒロと共にいて、引き換えにされたとき、この子を優先するという自信などなかった。そこまで自分を過信していない。信用していないから。  この世でもっとも信用できないのは、自分だった。 「ごめんなさい」 「ええ? なんで、謝んないでよ」 「……ごめんなさ」  自分勝手で。 「謝んなって」 「ごめ」 「モモナさん」  自分の目があった。  あ、いやちがう。チヒロの瞳に映る自分だった。両頬を覆うぬるさに、ようやく現状を把握する。包まれているのはチヒロの手だった。穏やかに包まれて、顔が上向く。情けなくて笑えた。  ひどく途方に暮れている。怯えてもいた。  視界がチヒロの顔でいっぱいになる。  真上から降りそそぐ声と口の動きが見える。何かを言ったのだろうとは思うが、分からなかった。  ももなさん、と。  呼ばれたのが自分だと気付くのに少し遅れた。あまりにも柔らかすぎるから。 「いいよ」  たぶん、 「俺にモモナさんの心臓ください」  たぶん、世界中のやさしさを込めたらこんな声になる。そんなばかみたいなことを本気で思った。 「な、んで」 「ええ? ウーン、モモナさんのお願いだから?」 「なんですかそれ」 「恩人の頼みは断れないっしょ」  言葉が出ない。さも当たり前だとばかりに、言うから。軽やかな声が鼓膜に残る。  やっぱり、と絞り出した声は震えていた。 「うん?」 「チヒロくん、こわすぎるんですけど」 「え? ナンデ!?」 「やさしすぎて怖いんですよ……」  何でこんなにも受け止めてくれるのか。さっぱり分からないのだ。「ほんと? なら成功だ」夜のなか、チヒロの頬に光が灯る。 「俺、モモナさんにはやさしくありたいから」  予感めいていた。この笑みを網膜に焼き付けてしまうんだろうなと。なぜって、もう心臓に塗りたくられてしまったから  ほ、と息をついた。唐突に納得したのだ。  たぶん、きっとこの子になりたかった。  口走りそうになって唾液と一緒に、ぐ、と押し込める。あなたになりたかった、という身勝手さをすべて胃液に溶かした。 「ね、モモナさん抱きしめてもいいですか」  同時にもう体が包まれていた。  なぜ聞いたのだろうか。意味が分からなくてちょっぴり頬が引き上がる。抑えきれなかった微かな笑い声が聞こえたようで、「ごめん我慢できなかった」と笑う。  きっちりと長い両腕が背に回っている。額がチヒロのジャンバーに当たって少し冷たい。  と、と、と、と心臓の動きが静かに耳に入り込む。生きているのだと当たり前のことを思う。  モモナの両手は不格好に、体の横にぶら下がったままだった。こういうときは、きっと恐る恐るでも相手の身体に腕を回すところなのだろう。そう思うも、伸ばせなかった。恐ろしくて触れられなかった。  だって、自分なんかがとうてい触れていいものじゃない。  ぽんぽんと背をやさしく叩かれる。肩がびくついてしまった。「触っていいのに」と苦笑がつむじにぶつかる。無茶を言わないでほしい。 「や、ちょっとむりですって」 「ええ、なんで? 無理じゃないって」 「いや、」 「いいよ、だってこの羽もうモモナさんのだよ」  何言ってんだろうかこの子は。そう聞き返す前に、笑みが落とされる。 「だってさ、俺はモモナさんの心臓もらうでしょ?」 「え、はあ」 「だから、代わりに俺のぜんぶあげる」  やっぱり何を言っているのか分からなかった。目を瞬かせている間に、手が導かれていく。  指先に冷たい感触。人差し指の腹がつるりと何かを撫でる。ふるりと動いて、いま触っているのが羽なのだと認識する。思ったより、薄くて硬い。けれど少しだけやわらかさもある気がした。少し薄いガラスのようだった。  どう? と視線で問われて、口ごもる。  どう、と言われても。 「チヒロくんの羽は、チヒロくんのものですけど……?」 「だからあ、ちがうってば。モモナさんのもんだよ。モモナさんだけのもの」  何度この子に呼吸を止められたことだろう。本当に怖くて、恐ろしくて。何なんだろうこの子は。 「……何なんですか、チヒロくんて」 「ええ?」 「ほんとにこわい」 「なんでよ?」  手にすることはないと思っていたものばかり、差し出される。  黙りこくってしまった小さな背中をチヒロがぎゅっと囲った。眉毛がゆるりと下がっていた。どうしようもないひとだねえ、とぼやかれる。  いまさらですか。どうしようもないと思うのなら見放してくれ。  抗議の声はやっぱり出なかった。だんだんと体温が移ってくる。違和感が溶けていくのが分かる。分かってしまって肌が震えた。  慣れないあたたかさに包まれる。  どうにも居心地が悪い。落ち着かなかった。どうしてか、離れたいとは思えなかった。それでも身じろぎすると、あやすように背を大きな手のひらが往復する。子供ではないのに。  そう思うも、声にはならなかった。  情けなさと滲み出るこそばゆさに瞼を伏せる。  いまこのとき、モモナに与えられるのは静かでやさしい振動だけだった。  不意に思う。この先、この手のひらに傷などできなければいいなと。  痛みも苦しみもない世界にいてほしい。幸福だけの人生であってほしい。そんな無茶なことを願ってしまう。  知らない感情ばかりで埋め尽くされる。目まぐるしく浮かんでは消えて、また浮かぶ。どれも願うばかりで自分には何一つ叶えられないものだった。叶えられない? 違う。思い上がるな。  与えられるなどと思うことが傲慢だった。  背中をさする手はまだやまない。  与えられる熱に喉がつまる。心臓が苦しくてあたたかくて、眼球が熱を孕む。  嫌だなあと思う。なのに、願望が止まらなかった。  忘れないでほしい。忘れてほしい。爪先ぐらいは覚えていてほしい。自分だけが手にもったままでいればいい。握りしめていればいい。  でも、だけど、やっぱり少しくらい、この子のなかに居座っていたい気もした。  浮かんでは沈んで、また現れる。手を伸ばす前にまた消える。自分がどうしたいのか、自分でも分からない。どうなんだろうか。たぶんどれも正しくなくて、すべて本当でもあった。  濁流にのみこまれそうで、燃えつきてしまいそうだった。 「ね、いっこきいていい?」  ふいに、肩口に声が落とされる。 「あとから俺がついていくって言ったらどうする?」  口が開いて、また閉じる。力なく俯く。垂れた髪が邪魔だった。  何と言えばいいのか分からなかった。  無責任なことが言えない。言いたくない。こんなとき、何も考えずにまっすぐに「生きていてほしい」と伝えられる無鉄砲さ、勇気があればよかった。こんなときでも、ないものを物欲しげに見上げてしまう。  臆病さがとんといやになる。 「じゃあいっしょに死にたいって言ったら? 許してくれる?」  許す許さないの領域じゃない。その権利はモモナのものではない。チヒロの好きにしていいよといいたい。言わなければならない。  言うべきだ。分かっている。 「チ、ヒロくんが」  だけど、心のうちがわが叫ぶ。 「世界から、どこにもいなくなるのは」  みっともなくこう喚くのだ。 「……ちょっともったいないですかね」  掠れてほとんど空気みたいな声量。  言い終えて、とたん後悔する。ほんとうに呆れる。あまりにも自分勝手な言い分だ。自分はさっさと逃げだすくせに。  逃げるように、両肩が内側へと入り込む。 「そっか」  うん、と何か耐えるような頷きが返される。  包まれる温もりがわずかに強くなる。心臓のあたりが騒がしくなって、あついものがぐるぐると渦巻く。言葉がひとつも出てこなかった。  それが、なんだかどうしようなくて、唇が震えた。  そっかあ、と再び呟きが降ってくる。  何ともあっさりとした声だった。ふらりと顔を上げてしまい、またもや息が止まった。悔しそうで、柔らかな色をした瞳がそこにはあった。  モモナさんずりいね、とぼやかれる。責めるようなものではなく拗ねる響きだった。すみません、と謝る声が湿っていて、嫌になる。  責めてくれたってよかった。そうであってくれれば、きっとこんなにも苦しくなかった。 「分かった、いいよ。なんたって約束しちゃったしさあ」 「やくそく」  約束ってなんだ。一瞬思考が止まる。  心外そうに「ええ!」と抗議の叫びがおとされる。チヒロの驚きは狭い部屋に薄く広がった。 「うっそ、忘れたの? 百歳まで生きるって言ったじゃん俺」  三秒ほどおいて、苦笑が滲む。  忘れてくれてよかったのに。そう言うと、チヒロはニッカリと日光みたいな笑みを浮かべて「モモナさんは知らねえかもしんないけど、約束は守る男なんだよね、俺」と言った。  われながらずるい人間だった。片隅でこうも願っているのだ。死ぬまで忘れないでいてほしい、と。  空が白みはじめている。  頬に日差しがぶつかる。眩しさに瞼を半分おろす。色素の薄い瞳が頭上でゆらめく。ピーナツバターのような色だと初めて知った。  こんな日に終われるなら悪くない。そう思う。ちょっぴり嘘で、本当だった。 「ね、モモナさんのお願い聞くんだから、俺のもきいてよ」 「な、んですか」  何だそれは。いったい何を言われるのか。明らかに警戒するも、次に放たれたお願いとやらに思考は停止した。 「爪塗らせて」 「つめ」 「うん、あとまた卵焼きも食べてほしい。作るから」 「たまごやき」 「そんで次の夜までそばにいさせて」 「な、ちょ、まって」  怒涛の勢いに言葉が追いつかない。目を白黒させてる間に、「そんで」とチヒロの唇がゆるやかに動く。口を挟ませないためにわざとだ。きっと確信犯だった。  なぜって、口角が上がっている。 「モモナさんのこと俺に教えて、んで俺のことも知ってほしい」  色々言いたいことも、反論も抗議もあった。  けれどどれもやっぱり空気には触れず、ため息へと変わる。  なぜって、チヒロの顔には隈が貼り付いていた。ウワと、いつかみたいにどん引いた声が漏れる。 「チヒロくん顔すごいよ……」 「や、それモモナさんもじゃん」 「五徹はおすすめしないです」 「ぜってえしない。んじゃまあ一回お昼寝しよ」  お昼寝って、――え?  言うやいなや、ゆるやかに抱き上げられる。そうして止まる間もなくベッドまで数歩でたどりつくと、ダイブした。寝転ぶというよりはもはや倒れたといってもよかった。もちろんモモナも一緒に。  まじまじとチヒロを見上げた。  見納めだった。夜ではない、朝日を背にしたチヒロを見るのはこれが最初で最後だから。  眠たそうな瞼がうっすらと開く。どしたの、モモナさん。いったん寝よ。不思議そうな表情で見返される。羽がゆらりと動いた。白いシーツのうえではよく見栄えした。黒かと思っていた色は、深い海底だった。  変質者。得体の知れない子。卵焼きを教えてくれた子。怖くて優しくて、それが怖い子。  それからモモナをこの世から逃がしてくれる子。  いま、穏やかに身体を包む手に心臓を止められるのかと思うと不思議だった。  痛いのだろうか。痛いのはいやだなと思う。ふつうに。「痛くないよ、心臓取るプロなんで」ぎょっとして、肩どころか全身が跳ねた。心を読まれたのかと思った。 「だからさ。安心してよ」  物騒すぎる通り名である。けれど、何よりも安心できた。何の証拠もないのに大丈夫だと思えた。  ぽんぽんと頭に手のひらが載せられる。そのまま何度か往復した。ゆるく瞬きを繰り返す。慣れない感触が不思議だった。撫でられているのだとようやく気付く。撫でられるのはきっと生まれて初めてだった。 「チヒロくん、」 「うん?」  ごめんなさい。ありがとうございます。  どちらも違うような気がして、音が途切れる。 「体に気を付けて、あの、刺されないように」  一瞬、真顔になったかと思えば、ぎゅと抱きしめられた。隙間がないくらいに、強く締め付けられる。グアと呻き声がシーツに転がった。抱きしめられたというか、ほぼ締め上げられたといってもいい。  ばかの力加減だった。内臓が出るかと思った。  少しずつ力が弱まり、ようやく息をつく。  心音が重なる。熱が伝わる。じんわりと体から力が抜ける。ぎこちなく、どうにか両手を伸ばして大きな背に添えた。  何だか、ひとつの生物のような心地だった。 「……いまもしかして殺す気でした?」 「はは、や、ごめんて間違えた。てかおやすみっていうとこですよモモナさん」 「ああ、そっか」 「そっかて。ええ? そんだけ?」 「あ、はい、おやすみなさい」 「ん、モモナさん」  いっとうやさしい声が降ってくる。  たぶん、きっと鼓膜から剥がれないだろうと思う。予感めいた確信だった。これまた根拠も証拠も確証もない。  けれどどうしてかまどろむ思考のなかで唯一たしかな重みがある。  それが何よりも幸運で、 「おやすみまたね」  温かな言葉を抱きしめて瞼を伏せた。
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