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「あ、井手さん。お見舞いの方が見えられてますよ」
看護師さんがそう言って病室を出ると、入れ違いで一人の女性が中に入ってきた。
女性は小さく僕に頭を下げると、なんだか感慨深そうに病室を眺めている。シンプルだけど設備の行き届いた個室の病室。僕はここで一年間眠っていたらしい。
そのせいか、意識を取り戻してから一ヶ月ほどがたつけど、未だにここ数年の記憶は混濁や欠落して曖昧だった。その記憶が今後戻るかも定かじゃない。
だから、部屋に入ってきた黒いブラウスにスカートを纏った女性の名前も思い出せない。どんな知り合いだったかも記憶になかった。
「調子はどう?」
「もう少しすれば退院できるし、リハビリすればまた走れるようになるらしいです」
「へえ。君は本当に走るのが好きだよね」
女性の言葉に苦笑が浮かぶのを感じる。どうやら僕は国内でも有数のマラソン選手だったらしい。昨年、意識がない時に開催されていた世界陸上の代表選手に内定するくらいの。
世界陸上といえば、今朝のニュースで一人の男性の死が報じられていた。かつてはマラソンの日本代表候補にも選ばれていた彼は、選考レースで負けて代表を逃した私怨から自分が負けた相手を刺し、姿をくらませていたらしい。一年近く行方知れずだったが、昨日亡くなっているのが確認されたらしい。死後一ヶ月ほど経過していたって話だった。
「花瓶、借りるね」
女性は僕を一瞥すると、窓際に置かれていた空の花瓶に青紫色の花を挿す。春を象徴するようなアヤメの花だ。その花を見た途端、何だか懐かしさと切なさが混ざり合った感情が胸の奥から突き上げてきた。
「あの、ありがとうございます」
「いいのよ。お見舞いくらい」
「いや、そうじゃなくて。もっと、なにか大事なことが……」
何か、この人と大切な事をしていたような。もう少しで出てきそうなのに、思い出すことができない。
頭を抱える僕に、表情を変えることのなかった女性が小さく目を見開くと、ふっと息を吐き出してゆるりと表情を崩した。
「不思議だよね。仕事中に見初めた魂を救いたくて、何だって犠牲にしてやると思って。自分の存在すら賭けてみた結末が、私は神の資格を失って人間として同じ目線で君の傍に立ってる」
「えっと……」
女性が言っている言葉はまるで理解できなかったけど、僕を見る慈しむような眼差しは僕の感覚――何か大切な事をしていた――が間違いないではないことを裏付けるようだった。
だって、全身黒い格好も、その顔も、声も、その全てがどこか懐かしい。
「この花の花言葉、知ってる?」
女性の視線の先のアヤメを見て、首を横に振る。記憶の中の僕は走ってばっかりで、それ以外のことには殆ど興味を持ってこなかった。
「『良い便り』、『信じるものの幸福』、『愛』、『神秘的』。花の色によって色々違うけど、私はきっとそんな存在になりたかったんだと思う」
復讐なんて花言葉もあるらしいけど、と少し伏し目がちに笑って女性はアヤメの花に軽く触れる。
「というわけで。君が私の名前を思い出すまでは、アヤメとでも呼んでくれる?」
「アヤメ、さん……?」
口にしてみると想像以上に口に馴染んでいた。まるで何度もその言葉を繰り返してきたような。僕の言葉にアヤメさんは小さくはにかみながら窓の外に視線を向けた。
「じゃあ、今日は帰るね。あまり長居しても悪いから」
「あ、あのっ。アヤメさんっ!」
病室から出ようとするアヤメさんの背中を思わず呼び止めていた。
アヤメさんは足を止め、首だけを動かしてこちらを振り向いた。アヤメさんに伝えたいことがある。そのはずなのに何も言葉が出てこない。
そんな僕にアヤメさんはイタズラっぽく笑ってみせた。
「そうだ。今、探偵として人の情報を集める仕事をしてるんだけど。どうにも足で稼ぐっていうのに慣れなくてね。どう、退院したら私の助手として働いてみない?」
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