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「あの時お助けいただきました、天使です」
私の部屋に窓から舞い降り、深々とお辞儀をしてきたのは、背中に白い翼をはやした銀髪の少年だった。見覚えのない顔に対し、私は困惑した。
「……助けましたっけ?」
「ええ、道路で車にひかれそうになっていたところを、あなたに」
思い返すと、そういえばいつか道端の中央で右往左往していた小鳥を助けたことを思い出した。羽が折れていて数日間、私の部屋で治療して空にかえっていった小さな小鳥がいたっけ。
「その小鳥です」
あれ、この少年……私の考えが読める? と一瞬、どきりとした。 さきほどこの自称天使は、私の部屋の外で宙に浮いているのをこの目で見た。信じる信じないかでいうと、前者だ。
「お礼として、ケーキをお持ちしました」
「わあ、ありがとう」
そういわれて、受け取ったもののケーキは箱に入っていない。ショーウインドーのケースから、先ほど取り出しましたといわんばかりのそのままホールケーキだ。不思議がってケーキを眺めていると、天使は口を開いた。
「お気に召しませんか?」
「ううん、そうじゃないけど……」
なんだろう、なにかがひっかかる。このケーキはどこから持ってきたのだろう? よくはわからないが買ってきた、のだろうか?
「他にご要望はありますか?」
「え、えーっと」
いま欲しい物なんてないし、特に要望なんて……。
「また後で考えるよ」
天使はにっこりと笑い「そうですか」といい、私の部屋の窓から飛び出して……いや、羽ばたいていった。
手元に残ったこの丸ごとのケーキを食べてもいいのか躊躇していると、私の後ろでカタンと音がした。何かと振り向くと、それは青い肌と痛んだ長い黒髪、なで肩のタキシード姿の男だった。頬はやせこけて、目の下には隈ができている。
「そのケーキは食べてもいいが、覚悟した方がいいぞ。あの天使、そのケーキを盗んできたのさ」
「! どうして? ……だって盗むのって悪い事でしょう? 天使が?」
「わかってないな、お前。天使の本質をわかってない。あいつに関わるのはもう止めた方がいい」
「そんな、こと」
混乱して頭がまとまらないでいると、私の部屋に天使が帰ってきた。
「あ、悪魔! また僕の邪魔しにきたな!」
天使はそういうと、悪魔と呼ばれた男は慌てたように一瞬で消えていった。
異様な雰囲気だと思っていたらあれは悪魔、だったのか。
「変な話ばかりして、僕たちを混乱させてくるんだよ! 君の魂を取られちゃうから、あんなヤツのいうことなんて、信じちゃダメだから」
「う、うん……」
じゃあ、このケーキはどこから?と、私は口に出して聞くことができなかった。聞いてしまうと、知らなくていい事まで知ってしまいそうで、怖かったのだ。天使はずっとニコニコと笑顔だったのが、かえって気になってしまったけれども。
***
翌日、学校の放課後に私は帰ろうと支度をしていた。
すると天使が教室の中央に立っていることに気が付いた。というより今回も宙にわずかに浮いていた。
「願い事は決まった?」
どうせなら、役にたつ願いがいいのだけれど。
「成績を上げて欲しい……なんて、無理だよね?」
「成績を? そうですねえ」
そうして、私の言葉に対して考えたような仕草をした後、天使は教室をゆるゆると飛んで出ていった。どこに行くのだろうと、私はそのまま走って追いかけた。
途中で見失い、探していると階下から男性の悲鳴のようなものが聞こえてきた。慌てて、階段を駆け下り、教室をひとつひとつ開けて確かめると――……
音楽室の片隅で、担任の先生が床に伏せて倒れていた。先生はピクリとも動いていない。その場から、動けず先生から目を離さずにいたら、先生の上半身から下半身にかけて、徐々に赤い水たまり――いや、血だまりが、広がっていった。
「なに……をしたの」
「なに、ってなんですか? まるで僕を責め立てるような口調ですね?」
「だって……」
確かにそうだ、開口一番になにをしたの、というのは適切な言葉でない。
けれど、不安だったのだ。
悪魔の言葉が呪いのように頭から離れない。倒れている先生に対して、彼が、天使が何かをしたのではないかという疑念が消えない。
「あなたのためになることしか、しませんよ?」
先日といっていることは一貫している。しているけれども――……。
その慈悲深い笑みの裏には何が隠れているのだろう。
そして、その白い服が赤く染まっているのは、なぜなのだろう。
それに、なにより。
「あなたが、やったんでしょう……?」
天使が掴んでいた先生の頭。それをオモチャのように持ち上げ、ぱっと手を離した。切断された首が落ちて、ごろんと転がる。
「そうだよ。だって、あなたに悪い成績をつけてるんでしょう? この人って、あなたにとって悪だよね。だから」
それは、私の勉強不足だから……と思うだけで、その言葉は、嗚咽となって出てこなかった。床に転がった先生と目が合った。口が歪み、瞳孔は開ききっている。その深淵のような瞳は私を恨んでいるように見えて、たまらなくなる。
「う……」
ようやく動けるようになり、口に手を当てながら廊下に出て家へと走り返った。悲鳴で駆け付けたのか、何人かの生徒とすれ違った。
***
どうしよう、どうすれば。
カタカタと震え、私は部屋に閉じこもっていた。
警察に捕まるのだろうか、私が、警察に捕まるのだろうか?
布団をかぶって、息を殺していたら、誰かの気配がした。
誰かが布団の上にのっかってくる気配がする。
どさり、といくつかのものが床に落ちる音。
不安と恐怖に打ち勝てず、私はそのまま布団から這い出た。ベッドの下に転がっていたのは、ボロボロと落ちる人の部品。その顔に見覚えがあった。さきほどすれ違った生徒たち。
「これでどうかな? 目撃者がいなかったら捕まらないよね」
「どうして、どうして……?」
私はそのまま、ごくりと唾を呑みこんだ。
「あなたのためです」
「望んでない」
「嘘でしょう? 目撃者がいるから、って怖がっていたよ? 誰もいなかったら、バレないよね」
そういって、しっかりと私を見てほほ笑んだ。
――狂っている。
「違う、僕は正しいことをしたんだ。他に、あなたを苦しませてるのは誰?」
天使は窓から出ていった。
どこにいったのだろう。
目撃者がいなければ、捕まらない?
でも、私が警察に捕まりそうになると、もしかしたら、その警察官たちが……?
想像してしまい、動悸が止まらない。
何もかもが、自分の常識と想像の範疇を超えている。
かたん、と私の後ろで音がした。
振り返ると、それは悪魔だった。ボロボロと泣き腫らした私に、悪魔はゆっくりと首を振った。
「だから、いっただろう。あいつら天使は、天使とは名ばかりの……いわば悪魔だ。俺たちよりも、よっぽどたちが悪い。自分が気に入った相手のためなら、なんでもやる。そして自分がやっていることが正しくて、絶対的な正義……それを信じて疑わない。神によって創られた妄信的な存在。それがどういうことか、考えればわかることだろう?」
悪魔は私の肩を掴み、「天使より悪魔の方がよっぽどマシさ。お望みならば、魂をもらうがどうする?」と薄く笑った。
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