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48円
出張で大阪に来たついでに、ちょっとディープな下町を見物して帰ろうと思った。
通天閣が見える通りは小奇麗でおしゃれな店も目に付いたが、わき道へと逸れるにつれ混沌とした世界が広がっていた。
昼日中から缶チューハイ片手にふらつく人や道端で寝込んでいる人なんかはまだ可愛いほうで、片方だけの靴や明らかに壊れた扇風機など、ゴミ捨て場から拾ってきたと思しき品々を路上に並べ商売をする猛者もいた。
物珍しい思いでそれらを眺めながら歩いていると、一人の男が目についた。ジャージのパンツにスーツの上着姿。いつの時代のものなのか頭には南海ホークスの野球帽を乗せている。
彼は何をしているでもなく暇そうに突っ立っていたのだが、私と目が合った瞬間こちらに歩み寄ると、もの欲しそうに右手を突き出した。
「なあ、金、めぐんでくれへんか?」
「どうして私が」
足早に立ち去ろうとした私の前に男は回りこむ。
「小銭でええねん。めぐんでくれや」
「すみません。あいにく持っていませんので」
「ウソつくなや」
急に男がすごんできた。
「小銭くらい持ってるやろ。ちょっと跳んでみ」
「え?」
「せやから、そこでジャンプせえ言うてんのや」
陰険な目つきで男は私を睨む。拒否すれば何をされるか分かったものではない。仕方なくその場で数回跳ぶと、ポケットの中でジャラジャラと小銭の跳ねる音が聞こえた。
「ほれみい。持っとるやないか」
男は再び右手を突き出した。とにかくこの場を離れたい一心で小銭入れをポケットから取り出し、相手の掌にその中身をぶちまけた。その勢いで何枚かが地面に零れ落ちる。
「なんやなんや。お金は大事にせなあかんで」
言いながらそれらを拾い集めた男は、先ほどとは打って変わって柔和な笑みを浮かべた。
「おおきに」
彼はこれ見よがしに小銭を握った拳を目の前に掲げてから去っていった。
すぐ警察の二文字が頭にちらついたが、小銭入れに入っていたのはたいした額ではない。だから小銭を落としたということにしてこの場は諦めることにした。昭和のころならいざ知らず、齢60近くになってまさかこんな経験をするとは思いもしなかったが。
またあの男と出くわさないよう反対方向に進路をとる。あとを追いかけては来ないかと振り返りつつ歩いていたせいか、前から来る人と肩がぶつかってしまった。
「すみません」とすかさず謝ってその場をやり過ごそうとしたのだが、そうさせてはくれなかった。
「ちょっと待ちや」
嫌な予感を胸に立ち止まった。髪はぼさぼさ、ひげは伸び放題、いつ洗ったのかと言うほど汚れた服を身に纏った老人がこちらを見ていた。
「なにか?」
「なにかやあるかい。袖触れ合うも多少の縁、言うやろ?せやからわしに小銭めぐんでくれへんか?腹減ったけど、おにぎり買う金もあらへんのや」
またか。勘弁してくれと思うものの、今回は堂々と言える。
「すみません。小銭持っていないんです」
「はぁ?そんなことあるかい。小銭の一枚も持ってない奴なんかおるわけないやろ」
それがいるんです。ついさっき持っていた小銭を全部巻き上げられました。そう思いつつも口には出さない。立て続けにカツアゲされたと知れたら嘲笑を受けるのは必至だ。こんな小汚いジジイからそんな目で見られるのだけは避けたかった。プライドの問題だ。
「いや、本当に小銭は持っていないんです」
「ほな、賭けるか?」
「は?」
「は?やない。賭けるか訊いとんのや」
「賭けって、どんな?」
「あんたが小銭持ってるか持ってへんか賭けるんやないか。小銭持ってたらわしの勝ち。持ってへんかったらあんたの勝ちや」
「どうしてそんな賭けをしなきゃなんないんですか。すみません。私、急ぐので」
頭を下げて立ち去ろうとしたのだが、
「あ、痛い痛い痛い。あんたにぶつけられた肩、骨折れたかもしれへんわぁ。イタイイタイイタイ……」
「ちょっと、勘弁してくださいよ」
突然の大声に慌てて男をなだめると、相手は意地汚い目でこちらを見た。
「ほな、賭けに乗るか?」
こうなったら仕方がない。このくだらないやり取りをさっさと終わらせるには賭けに乗るしかなさそうだ。小銭を持っていないのだから負けることもないのだし。
諦めの境地で数回頷いてから、
「で、何を賭けるんですか?」
「せやな……」
老人は値踏みするように私の全身を眺めてから、
「わしが勝ったら、その腕時計をもらおか」
私の左腕に巻かれた時計は、高級とまではいかないがそこそこ値の張る逸品だ。手放すことは絶対にしたくないが、負けることはないのだからまあいいだろう。
「いいですよ。じゃあ私が勝ったら?」
「これやるわ」
その手首に巻かれていたものを見て思わず目を見張った。ハイブランドの腕時計だ。真贋は定かではないが、本物だとすると私のものよりはるかに高額だ。
「その時計……。いいんですか?」
「おう。どうせもらいもんやしな」
こんな小汚い老人にこんな高い時計をやるとは、世の中にはとんだ酔狂者がいたものだ。とは言え、この賭けに負けはないのだから、必然的にそれは私のものになるのだが。
「じゃあ、どうしますか?小銭を持っているかどうか、身体検査でもします?」
両手を広げて身構えていると、老人は鼻を鳴らした。
「そんなめんどくさいことせんでええ。その場で跳んでみ」
ああ、さっきのパターンか。そう思いつつ軽くその場でジャンプした瞬間、
〈チャリン、チャリン〉
「へ?」と慌てて小銭入れを取り出し確認するが、中は空っぽだった。
当然だ。中身はさっき全部ぶちまけたのだから。じゃあなぜ?不思議に思いつつ身体のあちこちをまさぐる。ズボンの右ポケットを押さえたところで硬い触感が伝わってきた。咄嗟に手を突っ込み、中のものをかき集めて掌に広げてみた。48円分の硬貨だ。
どういうことだ?小銭入れに入れ忘れていたのか?いやいや。朝ズボンをはくときにはそんな音はしなかったはず。だったらなぜ……。
「わしの勝ちやさけ、いただくで」
老人は私の左腕を取ると、するりと腕時計を外して掲げて見せた。
「これ、売ったらいくらになるやろな」
言いながら彼は歩き始めた。呆然とそれを見送るうち、老人の姿は路地へと消えた。
「アホやなぁ。まんまとやられたがな」
その声に振り向けば道端に座り込んで缶ビールを飲む男がいた。
「やられた?」
問い返すと、男はさも楽しそうに口を開く。
「あの爺さん、マジシャン崩れの元スリやがな」
スリと聞かされ、慌てて体中をまさぐったが、すられたようものはなにもない。
「ちゃうちゃう。すられたんやのうて、入れられたんや」
しばし考えてからその意味に気づいた。手の中の48円に目を落とす。これは、あの老人と最初にぶつかったときに……。
「キャッシュレス言うんか?最近は現金持ち歩かん連中が増えたさけな。財布がなけりゃスリもでけへん言うて、あの爺さんも方針変えたみたいやで」
あのときからすでに、老人の術中にはまっていたということか。
賭けに乗ってしまった手前警察に訴えることもできないし、この場は48円であの時計を売ったことにして……諦めるには相当な時間が必要に思えた。
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