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「しっっ。吉田さんよ」
小さなアパートの扉を開けて外に出ると、隣の松原さんと大家さんがコソコソと話し込んでいた。玄関の鍵を閉める私を見て愛想笑いを向け「お出かけ?」と聞く。
「天気がいいので散歩しようかと」
そう私が言うと大家さんは笑顔を向けた。
「そう。楽しんで来てね」
嘘ばかり。彼女らは甘露の噂話を楽しげに吹聴し、顔は優しげで、口からは猛毒を吐いている。
『若いのに、いつまでも働かないで、ひとり暮らしなんて親は何も言わないのかしら』とか『家賃は、ちゃんと払えるのか心配だ』とか、そんな言葉が聞こえたことがあった。
そろそろ半年になる。働かなくなって。
ブラック企業で働き、月の残業時間は80時間ほど。ディスクワークだったが身も心もボロボロだった。貯金はある。しかし、半年も働かずにいれば、それなりに財布の中身は減っていく。切り詰めていても家賃や公共料金は待ってはくれない。
「そうだ。市民税も払わないと」
万札は羽を生やして軽やかに飛んでいくものだ。結婚すればと言う人もいるが、マッチングアプリを使って出会いを求める気にもなれない。
「散歩、散歩。今は考えるな」
部屋に籠もりきっていても心が滅入るだけだ。と、そこに黒猫が目の前を歩いていく。猫はのんびりと道路の隅を歩いて、こちらをチラリと見るが、気にした様子はない。漆黒の綺麗な毛並みに、少し太った丸い体格、尻尾を楽しげに揺らしながら歩く姿が、どうにも興味を惹かれ、私は猫のあとを追うことにした。平日の正午の閑散な住宅街は人がいない。
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