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2004年・決起
敬が生後五ヶ月を迎えた十月、ウズベキスタンで突如クーデターが起こり、長子は行方不明となって消息が途絶えた。
「小山田さん海外郵便です」
決定的な現実を突きつけられた訳でもないので、心の落とし所が見つからない。生きているのか、死んでしまっているのか。そんな生活は、宙に浮いた掴みどころのない格好で、気がつけば一年余りの時間が経っていた。
その日、玄関を開けると配達員三人が作り笑いを浮かべて、大小まちまちのダンボール二十箱を、迷惑そうに雑然と廊下に並べた。送り元はウズベキスタン。
引きちぎり、中身を確認すると全てがジグソーパズルのピースだ。意味がわからない。発注書が添えてある。発注者は「小山田 長子」
長子と連絡が取れなくなった日よりも数日前の消印だ。
そこには、見覚えのある丸文字で『2,000 × 1,000 1peace=1cm』と書かれていて、最後のゼロが迷ったように少し歪んでいる。
「長子、あいつ、規格を間違えたんだな……」
長子は数字が苦手だった。
*
「ねぇ、ねぇ。これすごく可愛いんだけど」
代官山の新古セレクトショップでレインボープレートにセールと書かれ吊るされた、ピリングスの真白いワンピースに長子は夢中になった。
「5,000円だって。買ってもいいかな?」と、ねだってくる。まあ、いいか。デートらしいデートなんて日本ではあまりしてないし。
「いいよ。俺のカード使えよ」
メンズコーナーで物色をしていると、見るからに不安定な足取りで長子が戻ってきた。
「大丈夫か? 貧血でも起こしたのか?」
下を向いて、にぎったレシートを恐る恐る俺に差し出す。
「これ、見るまで気づかなくて……もう、カード決済しちゃってて……」
まともに歩けそうもない長子を、店を出てから家に着くまで励ました。
5,000円の服を買うつもりで50,000円払っていた。
古品の店で返品は受け付けていなかった。
*
見覚えのある丸文字と、あからさまな桁の間違いに、長子の幻影が強い説得力を持ってちらつく。発注書をそっと床に置き、座り込んで乱雑に積まれたダンボールに頬を乗せた。
「長子お前なんだな、このダンボールはお前が梱包したんだな」
長子が触れたであろうダンボール。無窮の彼方に旅立ってしまったのなら、この世で時間のずれがいちばん少ない、おそらく最後に触れた遺品になる。
「長子……」
ダンボールが温かい。頬の温もりに長子の体温を重ねていた。何をしてんだ? これは俺の体温の輻射熱だ。俺はいかれちまったのか。長子の温もりではないのに。だって、長子はもう……
鼓膜よりずっと奥。理性の深淵で弱々しく響いた。
〝クシャッ〟
潰れた。決定的に。逃げ場の見つからない現状に、受け入れざるを得ない長子の死に、これまで必死に抗っていた心が潰れた。
「ぐおあぁっ」
あらん限りに哭した。喉が千切れて、涎と血の混じったピンクの液体が糸をひいて床に垂れる。
暫くして力が抜けると、そのままの姿勢で呆けた。
ガタンッ。何かの音が廊下に木霊する。泥棒か。もう首を上げるのも面倒だ。どうでもいい。持っていけ。好きなものを持っていけ。どうでもいいんだ。この命も持っていけ。もう、いいんだ。
「あ〜あ〜ぐおあ〜」
廊下に聞いたこともない奇声が響いて、柱の陰から俺を見据えた敬一郎が両手を広げて立っていた。
「あ〜あ〜」
ふらふらとした足取りはおぼつかず、大きく右に左に揺れながら、それでも少しづつ俺の方へ向かってくる。
「お前、歩けたのか」
違う。初めて立った。初めて歩いた。
力の抜けた身体を引きずって抱きしめた。
「すまない、敬」
すまない。お前が頼れるのは俺しかいないよな。心細い思いをさせて、ごめんな。
俺がしっかりしなければいけないよな。
長子を失って悼む想いの深さは、そのまま等しく敬一郎へ向ける愛情と責任の深さなんだと、理解した。
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