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2024年・過去からの手紙 ①
「親父、とうとう……」
「来たか、敬。ああ、今日で答えが出る」
敬が生唾を飲み込む音がリビングで、ふくらむ。
どれほどの茫漠とした時間が頭上で流れたのだろう。二十年という時を経て、完成まで残りたったの三ピースとなった。終わるのだ。これで。終わりなんだ。すると、いままで感じたことのない重苦しい鈍色の気体が、俺の全身をすっぽりと包んで浅い呼吸しか出来なくなった。肺、胃、内臓へとゆるやかに流れ込んできて、体の各器官を凍てつかせる。俺は内側から凍えている。
パチリ。
震えが止まらない指や手には、深いシワが刻まれている。完成を目指していたはずなのに、終わりを目前に迎え、終わりたくないとした不安に襲われている。完成するまでの過程は、途方もなく愛おしく、思い煩う余裕が持てないほど凄まじかった。とうに俺の人生の一部になっていた。
パチリ。
長子、当時三十八だった俺は五十八になったよ。君の絵が海外で高値で売れて、残された俺たちを助けてくれたんだ。家を建てて、いまや敬はこの家を出た。生活や人生の在りようも変わった。最近は近所のゴミ出しを手伝う、愛想のいいおじさんだ。想像もしてなかったよ。人って変わるもんだな。ほんと、笑えるよな。
でも、君のことは一日たりとも忘れたことはない。 毎日ずっと話していた気がするんだ。
これが終われば、君と話せなくなる。のか?
フワリ。
最後の一ピースは嵌めようとすると、まるで意思を持った魚のように俺の指先を離れて吸い込まれた。あるべき場所にピースが重なる。
ゆっくりと完成された絵を眺めた。
俺を捉えていた不安はゆるやかに溶けていく。
突然、長子の絵からモーツァルトのピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K 467の調べが流れた。静々と、徐々に音量は高まり、やがて部屋の壁にまで伝播する拡がりを見せた。長年蓄積していた緊張が切れたのか。どこかは確実に切れたようだ。葉の一雫が光を反射して命が躍っているよう。ああ、綺麗だ。脱力していく。バターのように身体が溶けて、あるときは小川のせせらぎに、あるときは森の枝の一つになって、景色の一部になっている。命が微笑みで溢れてる。って、あれ。俺、こんなに涙、流してたんだ。
膝が折れたまま、目を逸らすことが出来なかった。
横二十メートル、縦十メートルの大きさで、二百万ピースの集積が産んだ圧倒的な迫力を誇る絵画。細部にわたるまで赤裸々に描かれている。
遠くまで伸びる湖。遥か彼方には雪をかぶった山脈の稜線が、夕陽を受けて金色に光っている。空は薄いピンクから紫へと、無限のグラデーションで限りなく淡く染め上げる。
ごくごく薄いオーロラが空高く斜めに揺れていた。
湖畔には影絵のように黒く塗りつぶされた一組の男女が小さく肩を寄せ合っている。
そうか、長子は幸せだったんだな。
君は、心から、こんなにも幸せだったんだな。
あの日、二人で未来を誓ったあの日。
彼女の目に映っていた世界は、彼女の心を通して描かれた絵は「わたし、紛れもなく幸せだったよ」と、幾千の言葉に変えて俺に伝えてくれていた。
「ありがとう。長子」
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