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2024年・過去からの手紙 ②
「敬一郎」
振り向くと敬は情景のまなざしで仰いでいた。いまや藝大の三年だ。絵画が醸す感性の真意がわかったのだろう。
「絵に描かれているこの場所で、この湖畔で、俺と長子は婚約したんだ。
その時の長子との会話を二十年間かかって、パズルのピースを一枚の絵に集約したことで、いましがた思い出したことがある。
いいか? これから話すことを、よく聞きなさい」
*
「あのね、この夕暮れ時に移り変わる空の色。この無限に折り重なるグラデーションを観ていて思ったの」彼女は横髪を耳にのせた。
湖面はうっすらと波寄せている。
「ん。何を?」
「死んだ人は誰もいない。生まれてこなかった人も、誰もいないって」
「どうしたんだよ、急に。哲学者にでもなったのか?」
「バタフライ効果ってしってる? 一匹の蝶が北京で羽ばたけば、翌日のニューヨークの嵐が一変する話」
「あー、聞いたことあるよ。カオス理論とか、ラプラスの悪魔とかの因果論でしょ」
小魚が飛ぶと鱗が夕陽に反射して、エメラルドグリーンの輝きを放った。
「うん。そう。わたし達が出逢えたのも、ほんの小さなきっかけで、みんなに助けられているから。
じゃぁさ、わたしが誰かに言葉をあげたり、優しく接することで、受け取った人はわたしの干渉を受けて、受け取った人の後の人生は微妙に変わっているはずだよね。わたし達がお互いに生きていることが、行動が、選択が、ダイナミックに世界に波及し合って、いま、この世界がある。
過去に生きていた誰が欠けても、いまの現実はなかった。声なき命があったから、いまの現実がある。だから、死んだ人は誰一人としていないし、生まれてこなかった人も誰一人としていないんだよ。きっと」
強い。
その場での素直な気持ちだ。
*
「長子はそのあと俺にいったんだ『子供が生まれたら出会った人みんなを幸せにする〝尊敬〟される子に育ってほしい』ってな」
敬は下を向いて、床を濡らしていた。
「会えただろう? 母さんに。わかっただろう? お前がどれほど愛されていたか。いまもだ。これからもだ。敬」
二十年の歳月の答えだった。
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