本編1-2

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本編1-2

 会場内を出た智衣は青年を連れて、同階の保健室へと向かった。展示とは関係ない保健室付近は誰もおらずスムーズに通行ができた。  鍵を入れて解錠すると、引き戸を開けて中に入った。 智衣「ごめん。そこ座って」  先に入って、手を解き、部屋の中心に置かれたパイプ椅子とスチールテーブルを指差した。  青年は、リュックを椅子付近に置くと黙ったまま手前の椅子に座った。 智衣「コーヒー、好き?」  給湯スペースでガサゴソと作業しながら訊いた。 青年「まぁ、嫌いじゃないですよ」  暗い表情のまま、暗い回答が返ってきた。 智衣「ブラックだけど、いい?」  マグカップを用意しながら再び訊いた。 青年「まぁ、嫌いじゃないです」  再び暗い回答。  嫌いでないのならいいだろう。2つのマグカップにブラックコーヒーを用意する。  そして、スチールデスクまでコーヒーを運び、青年と自分の目の前にそれぞれ置き、ゆっくりと口を開く。 智衣「えっと、突然ごめんね。私、ここの保健の先生なの。智衣って呼んで」  思わず、普段の呼び名が口から出た。だが、今はどうでもいい。 青年「智衣さん」  青年が確かめるように反芻した。 智衣「えっと、君、名前は……?」 怜「怜です。黒川 怜」  名前を訊ねた後、暗く低い声で返された。 智衣「えっと、高校生?」  再び訊ねた。 怜「北原に通ってます。2年生です」 智衣「あっ、そうなんだ」  私立北原高等学校。この清見高校からも程近い高校だ。そこの生徒なら清見の文化祭に来ていても不思議はない。  納得して頷くと、会話が止まった。 智衣(なんて言えばいいか……)  智衣は会話の切り出し方に迷った。 怜「あの……。話ってなんです?」  迷っていると怜の方から話しかけられた。 智衣「あぁ、えっと、あの……」  なんて言えばいいのか。再び迷いながら、思い切って切り出すことにした。 智衣「あのね……! 君のこと、気になったの!」  年甲斐もなく叫んでしまった。大きな声が保健室に響き、すぐ消えた。  大きな声に怜は怯えた表情を浮かべた。  それに気づき、智衣は慌てて誤解を解く。 智衣「あっ、えっと、あの、そういう意味じゃなくて。その、一目惚れしたとか、そういう恋愛の話じゃなくて……」 智衣(落ち着け……! 警戒される……!)  智衣はコーヒーを一口飲んだ。なんとか少し落ち着いた気がする。そして再び口を開く。 智衣「さっき、その、色の集合体って言ってたから、気になったの」  智衣はもう一度コーヒーを飲んだ。そして続ける。 智衣「人の感性はそれぞれだけど、なんというか少し冷たいって思って……。なんか、心に何かあったのかなって、気になって……」 怜「そうですか」  今度は怜がコーヒーを飲んで相槌をした。 智衣「どうして?」  素直に訊ねた。 怜「どうしてもなにも、思っただけ。生徒同士で下書き作って、それに合わせて必要な色を集めて、塗りつぶしていく。絵なんてのは色をかき集めただけの集合体です」  暗く希薄な雰囲気から、淀みのない低く消え入りそうな声が聞こえた。  やはり温度や温もりがない。  怜は下を向き、暗く否定的な雰囲気でコーヒーを飲んだ。  智衣は直感的に理解した。この青年に何事かが起こっている。そして、その何事は只事ではない。  改めてだが、養護教諭として警報が鳴る。 智衣「過去に美術とか絵に関して、何かあったの? プライバシーは守るから、少し話してみてくれない?」  智衣は真剣な表情と優しい声で訊いた。 怜「でも、見ず知らずの人に……」  再び暗い表情と声で下を向きながら、悲観で卑下した様子になった。  少なくとも、こんな表情は子どもにさせるべきではない。  こんなの、かける言葉は一つだけだ。 智衣「聞きたい。聞かせて」  智衣は優しく真剣な様子のまま、即座に返した。 怜「ずっと辛くて、ずっと楽しくないんです……」  しばらくすると、再びコーヒーを一口飲んでから静かに切り出した。 智衣「うん」  智衣は頷いた。 怜「いつも気持ちが暗くなって、何しても楽しくなくて……。何食べても美味しくないみたいな状態が、ずっと続いてて……」  言いながら、怜は顔を少し下に向けた。 智衣「うん」  智衣は相槌を打った。 怜「実は、絵も昔は描いてたんです……。仲間同士で色々話して、描いて……。でも、ある時から楽しくなくなって荒んで……。感情を剥き出しにして、仲間を傷つけて……」  なんとか言葉を選んでいるのか、ゆっくりとした口調だ。 智衣「うん」  再び相槌。 怜「頑張っても誰も褒めてくれないし、認めてくれないし、慰めてもくれない……。オレ、なんのために頑張ってんのかなって……」  怜は自嘲気味に薄く笑いながらポツリポツリの言った。 怜「どうにかしたいけど、でもどうしたらいいのか分からなくて……」  自嘲したまま、先ほどよりも下を向いて言った。 怜「ただ、どうにか、助けて欲しいんです……」  消え入りそうな声で、怜は苦痛と叫びを口にしながら再び下を向いた。  そして言い終わると同時に重苦しい沈黙が訪れる。 智衣「そっか……」  確かめるように言葉を返した。  そして同時に考える。話に基づいた症状だけ見れば、何らかの精神疾患に近い。  恐らく誰にも相談できず、共感や理解もされず、ギリギリの状態で生活していたのだろう。  加えて、話ができるほど信頼できる人にも恵まれなかったことも大きな要因かもしれない。 智衣「ちなみにご両親は?」  智衣は試しに訊いてみた。 怜「何も知らないです。仕事はしてますけど、毎晩お酒飲んで、夫婦喧嘩とか仕事の愚痴とか言い合って、寝るみたいな。ずっとそうで、こっちを見てくれないんです」  最悪の状態だ。だが、むしろ好都合かもしれない。子どもの精神状態を親が本当の意味で理解するケースは数少ない。  こういう状況の時、まずすべきなのは、 智衣「ありがとう。お話してくれて」  智衣は迷いのない口調でお礼を言った。 怜「えっ?」  突如としたお礼に、怜は戸惑いの表情を向けた。 智衣「こういう心の奥底の感情を話すのは、すごく勇気のいることだから。だから、ありがとう。よく頑張ったね」  言い終わると、怜は目が潤み始めた。  恐らく、こんなことは初めてなのだろう。  何かが込み上げるようで、我慢しなければと堪えそうな表情になる。 怜「はっ……。あぁ……。うぅ……」  しかし、気づけば声が漏れ、啜り泣き始めた。止めどなく溢れる涙を流す様子は、どこか子どもに戻ったような、等身大の姿に見えた。 智衣「涙出てるよ」  優しく微笑みながら、智衣は怜の頬に手を当て、卓上のティッシュで涙を拭き取った。 怜「ごめんなさい……。こんなつもりじゃ……」  謝罪と弁解の言葉を口にした。だが、呼吸が苦しくなり、話すことが難しい様子だ。  智衣は怜の背中をさすり、涙が止まるまで、そばでさすり続けた。  10分ほど泣いて涙が落ち着いた後、怜が気づいた。 怜「ごめんなさい……。こんな人前で泣くなんて……」  再び謝罪の言葉を口にした。 智衣「大丈夫だよ」  首を横に振ると、智衣は怜の肩をポンポンと叩いて、向かいの席に座り直した。 智衣「ちょっとお話してもいい?」  落ち着いた頃を見計らい、智衣が優しく訊いた。  怜は頷き返した。 智衣「楽しくないって言ってたけど、少なくともそれは今だけの話だと思うよ」  優しく微笑みながら真剣に話し始めた。 智衣「今はただ疲れて、弱っているだけ。時間はかかるけど、怜君のその心の状態とか考えとかは絶対よくなる時が来るよ」  今度はより優しい口調で、励ましと怜の現状を口にした。 智衣「でもそんな時、来ますかね……?」  簡単に変われないのではないか。  怜は不安そうに話した。 智衣「そう思うのも無理ないね。でも、まずはゆっくり休むことだね」  責めることも否定することもせず、智衣は受け入れながら優しく話した。 怜「でも、休んだら……」  下を向き、不安そうに口をもごつかせた。 智衣「休んだら?」  智衣は確認するように言葉を反芻した。 怜「いけないことしてるって……。親とか、誰かに怒られるかも……」  声と肩を震わせて、静かに言った。  なるほど。これは重症だ。  もはや思考が呪いにかけられていると言っても過言ではない。  智衣は一息おいてから、静かに口を開いた。 智衣「でも、君の人生がかかってる。命や人生が関わってくるのに、誰かを気にするの?」  迷いのない静かな言葉を向けた。そして再び一息置いて、口を開く。 智衣「時代は随分変わったんだから、君の人生も過ごし方も、なんなら進学も就職も職業も恋愛も国籍も宗教も何もかも、自分の好きなものを選択していいんじゃない?」  身振り手振りをつけて優しい口調で話した。 智衣「もちろん、他人にそれを強制するのは違うけど、少し休んで怜君が楽しいと思うことをして自分で決めればいいんじゃない?」  身振り手振りを抑えると、今度はより優しい口調で話した。 怜「自分で決める……」  怜はぼんやりと言葉を反芻した。 怜「そんなの考えたこともなかった……。いっつも、親とか誰かに怒られないかって思って……」  やはり思考が囚われているようだ。  囚われた思考を持つのは、大人も子どもも変わらない。 智衣「十分休めば、また色んなことが楽しめるようになるよ」  何度目かの迷いのない真剣で優しい口調で励ました。  智衣の言葉を聞き、怜は再び泣きそうな表情になった。しかし、慌てて涙を拭き取ろうとする。 ポニテ「智衣先生ー。木村っちが呼んでる」  刹那、ポニテの生徒がノックもせずに突然入ってきた。 智衣「あぁ。今行くから、待って」  智衣は入口付近のポニテに返事をした。 怜「あなたと話せてよかったです」  頃合いだったのだろう。  話の切り上げの意味も込めて、怜はどこか寂しそうにリュックを持って立ち上がり、お礼を言い、智衣へお辞儀をした。 智衣「こちらこそ。なんかあったら、また言って」  そう言うと、智衣は卓上の小さなメモ用紙に名前と携帯番号を書き、紙を渡した。  怜は受け取ると、もう一度お辞儀をし、ポニテの横をすり抜けて、退出した。 ポニテ「誰? あの子」  怜が去った後、ポニテが顎でしゃくって訊ねた。 智衣「ほっとけない、大事な人かな」  少し迷いながらも真剣に答えた。
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