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そうして飛んで行った清川の下宿は、夏の昼下がりだというのにエアコンが切ってあった。
暑い部屋で、プリントアウトして手製で簡単に製本されたその作品を読んだおれは、言葉を失った。
凄すぎる。
これまで清川の弱点だった、生き生きとしたキャラクタ描写が見事に克服され、登場人物全員に感情移入してしまって仕方がない。
次々と起こる殺人事件、複数の密室トリック、謎が謎を呼び息もつかせぬ展開。
たまらない。
「どうだい、田沼くん?」
「こ、こ、これは……確かに、とんでもない作品だ……」
この作品の作者は、一躍時の人になるに違いない。
ミステリ界のみならず、出版界の救世主として永く名を残すだろう。
おれは清川を見た。
ピンクのTシャツ、レモンイエローの半ズボン。丸刈りにした頭、真っ赤なソックス。ホタテをかたどったピアスに、蛇の指輪を両手に三つずつつけている。
改めて見ると、奇人としか思えない。
こいつが救世主になんてなったら、世も末だ。
「清川、しかしこんな傑作を書いてしまうと、発表前に盗作でもされたらと思うと気が気じゃないんじゃないか? データの取り扱いとかは大丈夫か?」
「だーいじょうぶ。これを書いたパソコンは完全オフラインだし、紙でプリントアウトしたのは今そこにあるものだけだからね。このまま金庫にしまってしまえば、コピーだってスキャンだってされようがない」
「そうかそうか。ところで、この作品の執筆については誰かに話したか?」
「いいや。今初めて人に見せたし、田沼くんのほかには、こんな作品を書いていること自体、おくびにも出していないよ」
その時おれの頭の中には、清川をどうにかしてしまって、この作品をおれのものとして発表できないだろうかという、邪悪な考えが渦を巻いていた。
しかし、目の前にある能天気な清川の顔を見ていると、そんな気も失せてしまった。
こいつの才能にはずっと嫉妬し続けてきたし、忸怩たる思いも重ねてきたが、中学からの幼友達でもあるのだから。
「じゃあ清川、とっとと金庫にしまっちまいな」
「うん。こいつは、たとえヒトミにでも見せるわけにはいかないからね。いくら婚約者とはいえ」
ふと出てきたその名前に、おれの心臓が大きく鳴った。
「誰だって?」
「いや、だからヒトミだよ。中学からの同級生の、佐藤ヒトミ」
原稿を持つおれの手が、ぶるぶると震えた。
「サッとHIT ME……?」
「速やかに自分をぶってどうするの。あのヒトミだよ。実は婚約したんだよ、僕たち」
鉛を詰めたバケツで、頭をぶっ飛ばされたような気がした。
佐藤ヒトミは、中学からの同級生で、おれの片思いの相手だった。
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