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0.赤銅の人魚と捧げ物の少年
イリアーテは、狭く冷たい棺の中でふと目を覚ました。麻酔が切れたのだ。彼は両足を縫い合わされ、人魚への捧げ物としてこの暗い海に捨てられた。
彼を囲むのは海水で冷え切った硬い鉄の床と、内壁にこびりついた錆びた匂い。胸の苦しさは恐怖と焦燥のせいか、それとも酸素が薄くなっているせいだろうか。
意識が遠のくたび、彼の中に絶望が広がっていった。徐々に足の感覚が戻り、じくじくと痛みだす。消毒もなしに乱雑に縫い合わされた皮膚は、直に突き刺すようなひどい痛みとなってイリアーテを襲うだろう。彼は逃げ出すことも、声を上げることもできない。ただ、じわじわと迫る死の予感を感じながら、このまま酸素が尽きる瞬間を待つばかりだ。
棺越しに響くかすかな海の気配は、最後に聞いた村人たちの声と同じくらい冷徹に思えた。彼の胸に渦巻くのは、自らを捧げ物として扱った村への憤りと、貧しい村を存続させるための手段であったという理解。
どうせ死ぬなら、これ以上相反する感情に振り回される前に早く終わってしまいたかった。どうせ希望などないのなら、早く。いっそ早く終わればいい。寒さが骨にまで染み、心までが無機質に凍りついていくようだった。
だが、その時だった。かすかに、何かが遠くから響いてきた。最初はただの錯覚かと思った。だが、その音は次第に明確になり、まるで誰かが遠くから呼びかけているように感じた。イリアーテは耳を澄ませる。反響音が、周囲の水を通して棺の中まで届いていた。
ほんの一瞬。捨てたはずの希望が、イリアーテの心の奥をひらりと掠めた。確認したくても、きつく結われた目隠しが邪魔をする。そうでなくても、外から完全に溶接された棺は水も光も通さないだろう。緊張と期待で鼓動が早まる。胸の苦しさが増し、意識が遠ざかりかけたその瞬間、外から微かな声が聞こえた。
「おい、まだ生きてるな?」
その声は鈴の音ように澄み渡り、イリアーテの耳に柔らかく馴染んだ。彼は思わず声を出そうとするが、喉が詰まり、言葉が出ない。しかし、棺の外からは「よかった。ちゃんと意識があるんだな」と、何故かイリアーテの様子がわかっているかのように安堵の声が上がる。少年のような口ぶりだが、それにしては柔らかく、少女にしては落ち着いた声音だ。
「大丈夫だ。ここにいるからな」
そう言って、声の主は緩やかな振動で棺を揺らした。こころなしか足の痛みと絶望がゆるりゆるりと和らいでいく。その振動はまるで子守唄のような心地よさがあった。
こんな海の底に、どうやって。イリアーテはふと当然の疑問を抱き、そして己が捨てられた名目を思い出した。
人魚への捧げ物――まさか、本当に? ただの伝承上の生き物だと思っていたが、実在していたのだろうか。ただの口減らしではなかったのか。だったら、自分は一体どうなるのだろう。一度イリアーテに訪れた安堵が、ふいに遠ざかった。途端に声の主に不審が芽生え、不確かな希望に振り回された自分が酷く愚かに思えた。そんなイリアーテの感情を察してか、人魚と思しき存在は心地よい振動とともに声をかけ続けた。
「オレはシエリ。お前を陸に戻してやる。大丈夫だから、怖がらないでくれ」
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