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海底で不気味な光を放つ洞窟に辿り着くと、ハディーゼは既に待ち構えていた。彼女は噂に違わぬ妖艶な美女だった。ぬめるような蛇革のドレスを纏い、深いスリットからスラリと伸びた足を見せつけるように組んで大鍋の縁に座っている。魔女が何らかの方法で人魚の動向を監視しているという話は本当らしい。突然の訪問にもかかわらず、「よく来たな」と金色の獣じみた眼差しでシエリを射抜いた。
「オレはシエリ。人魚としてじゃなく、個人的な頼みで来た」
シエリは緊張の面持ちで名乗ると、声が震えぬようにと意識して事情を話す。ハディーゼはシエリが話し終えるまで静かに聞き届け、そしてニヤリと赤い唇で弧を描く。
「ならば相応の対価が必要じゃ。身体の代償には、身体を。支払う覚悟はあるかいね? わしが所望するのは――」
対価の内容を聞いた瞬間、シエリは息を詰めた。戸惑いがシエリの赤銅の瞳を揺らし、唇が言葉なく震える。
「不服か?」
ハディーゼは目を細めると、シエリの赤銅色の双眸をじっと見定める。一秒、二秒。緊迫を孕んだ沈黙がシエリ達の間に流れる。それを破ったのは、シエリの硬い声だった。
「受け渡しは、いつになる?」
ハディーゼは美しい面に満足そうな笑みを浮かべ、ゆったりとした動作で足を組み替える。
「そうさな。頃合いになったら迎えを寄越そう。それまで大事にすることじゃ」
「わかった。契約成立だ」
シエリはそれだけ答えると、恐怖と覚悟の入り混じった表情でその場を去った。
その後、シエリは魔女ハディーゼを空気溜まりに呼び、イリアーテの治療を頼んだ。魔女は巨大な蛇を共に連れ、大鍋やら瓶やらを持ち込んでの治療にかかった。数日もすると、腐臭すら漂い始めていたイリアーテの傷口はきちんと新しい皮膚が再生され、彼の体は以前の健康を取り戻しつつあった。しかし、縫い合わされた歪な足は変わらない。自由を奪われ、まるで呪いのように彼を縛り続ける。
「体力も戻ってきたし、いよいよだな」
シエリがそう言ったのは、イリアーテがシエリの獲ってきた魚や貝を一人で咀嚼出来るまでに回復した頃だった。
「いよいよって、何が?」
イリアーテは僅かに眉を潜めた。
「人間の世界に戻してやるって、そう言っただろ?」
シエリは、得意げな笑みを浮かべてそう言った。シエリは、陸の世界に戻ることが彼の救いになると信じていた。しかし、イリアーテの返答は冷めたものだった。
「この足で?」
「安心しろ、足は治る。実はハディーゼにもう頼んであるんだ」
「あんたの趣味がお節介な人助けだってことはわかったよ。でも、普通は見返りもなしに他人を助ける理由なんてない」
「ひどい言いようだな。ま、あながち間違ってねぇけど」
シエリはイリアーテの疑いの目に耐えかね、仕方ないといった風に自分の短く切られた髪を指先で引っ張って見せた。そして、軽い調子で言う。
「ハディーゼ曰く、身体の代償には身体をってさ」
それを聞いたイリアーテは一瞬戸惑ったが、すぐにシエリの言動を察した。シエリの髪がその代償だったのか、と。
「別に気にすんなよ? 短いのも動きやすくて悪くないんだから」
シエリは軽く肩をすくめ、そしてふと真面目な顔で「そんなことよりだ」とイリアーテを見つめた。
「オレに陸の世界はわからない。複雑だろうし苦労も相当なもんだとは思う。どこでどう生きるか、この先はお前次第だ。ただ、これだけは言っとくぞ? オレは生きようと足掻く限り、お前の味方だ」
イリアーテは何も言わずにシエリを見つめた。シエリはあくまで「陸での未来」を提案している。だが、イリアーテにはどこか現実味を帯びない。いや、希望を見出せない話に思えた。ならばどうしたいのか。そう自問したとき、イリアーテの心はすでに別の道を望んでいた。
「……おーい、聞いてるか? 一人で真剣に話してちゃちょっと恥ずかしいだろ? 相槌くらいくれよ」
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