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シエリには一族での役目があるらしく、一日中イリアーテについているわけにはいかない。治療をハディーゼに任せると、シエリは後ろ髪を引かれつつも人魚の住処へと帰り、数時間後にまたイリアーテの様子を見に戻ってくる。そんなふうにシエリは毎日を行ったり来たりと忙しなく過ごしていた。イリアーテはシエリの姿が空気溜まりの洞窟か消えてしばらくすると、ハディーゼに「魔女さん」と呼びかけた。
「足の代わりって、貰える? 実は俺、シエリが思ってるほど陸への未練とかはないんだ」
ハディーゼの獣じみた瞳が怪しく光った。彼女はしばし沈黙し、イリアーテを見つめたまま口を開いた。
「ほう。シエリの提案が気に入らなかったかえ?」
「……まぁ、端的に言えば。シエリには悪いけど、それは俺にとって望む未来じゃない」
「シエリが『代償』を払って手に入れたものは、お前さんが陸で生きるための施術と補助じゃった。が、お前さんはそれを望まぬと?」
「望まない」
「ふむ。ならば何を望む?」
「人魚の尾」
イリアーテは静かな声で言った。ハディーゼは彼の言葉に整った眉を寄せ、訝るように覗き込んだ。イリアーテはそんな相手の態度など気にせず続ける。
「正直、もう何もかもどうでもいいんだ。多分、このまま陸に戻っても無気力状態ですぐに野垂れ死ぬと思う。だったら多少なりとも興味のあるところに行こうかなって」
ハディーゼはイリアーテの思考に興味をひかれたのか、大鍋をかき混ぜる手を止め、彼に近づいてきた。
「お前さん、人魚の世界に興味があるのかいね」
「ないよ。でも、シエリがいるから」
ハディーゼはそれを聞いてしばらく、イリアーテの言葉の意図を読み取った。彼女は艶のある黒い巻き毛をかきあげ、クックッと喉の奥でさも愉快そうに笑う。
「面白い」
ハディーゼはイリアーテに薄緑色の薬を飲ませると、足元に手をかざした。
「最初はつまらん客かと思っていたが、悪くない取引になりそうじゃな」
冷たい波動のようなものがイリアーテの体を揺さぶり、痛みと共に足が尾に作り変えられていく。縫い合わされた足が解放され、銀色の美しい鱗が彼の体を覆い始める。
「さて。しばらくは昏睡状態となるじゃろう。シエリが戻った時の反応が見ものじゃな」
イリアーテは変化に痛みを覚えつつも、心は静かだった。迷いも、後悔も、不安すらも感じない。チラリと過ったのは、次会う時に見られるだろうシエリの驚く顔だった。
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