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小学生の頃、運動場にいる時は退屈な時間ばかりで、僕は友だちとしゃがんで砂に絵を描いていた。キジトラみたいな色合いの砂を指で掻き分けていると、琥珀色の石が目についた。炊いた米粒よりちょっと大きいくらいの半透明のきれいな石だった。「それ、きつねのこばんだよ」と友だちが言った。初めて聞く言葉だった。きつねのこばんを百個集めると願いごとが叶うのだと友だちが教えてくれた。将来の夢なんて特になかったから、漠然と、大金持ちになれたらいいな、とひとつ目の石を持ち帰った。家に帰ると、ティッシュにくるんで保管した。それから僕は、学校の運動場だけでなく、公園の砂場やおばあちゃんの家の畑など、あらゆる場所できつねのこばんがないかと意識するようになった。中学生の時は空になったギャッツビーのヘアワックスの容器で保管して、高校に上がると初めてできた彼女がバレンタインにくれたルタオの空箱に移した。大学生の時には、ルタオの空箱は角がボロボロになってきたので、バイト代で買ったアニエスベーの腕時計が入っていたケースに入れた。ときどき夜中に机の上に広げて、何個あるのかを数えた。『89こ』と付箋に書いて、ケースに貼りつける。大学を卒業する頃には、俗にいう『きつねのこばん』の正体は石ではなく、ハゼノキの種のことをいうのだと知っていた。
ただのきれいな石が百個集まる頃には、僕は大学を卒業して会社員になり、三年が経過していた。会社に就職する頃にはあと二個だったのに、それを見つけるのに三年かかった。百個集まったが僕は大金持ちにはならなかった。仕事の帰り道にある空き地の地面をぼうっと眺めながら歩く。歩道に散った砂を蹴りながら、もしも正しくハゼノキの種を集めていたのなら、願いごとは叶っていたのだろうか、と考えた。そもそも今、大金持ちになりたいだろうか。突然そんな多額のお金を手に入れたら、税金を払う必要があるのではないか。受け取るのに何かしら手続きが必要なのではないか。だとすれば面倒だし、法律に抵触するようなことがあれば、へたをすれば犯罪者になってしまう。それは嫌だ。家に着くと、アニエスベーのケースを開いた。緩衝材のようにぎっしり石が詰められている。人差し指を突っこむと、ひたっと指先が冷たくなる。机の上に石を広げて、ひとつ、ふたつ、と数える。三十まで数えたところで、捨てよう、とふと思った。効力のない石をこうやって数える時間は無駄でしかない。ケースを持って外に出た。どこに捨てようか悩みながら一時間ほど歩いて、結局捨てられないまま帰ってきた。その道中、畑や駐車場の横を通る時、無意識に砂利の中に視線を這わせていた。
捨てられもせず、願いごとも叶わない。いっそ千個でも目指してみようか。生きている間に到達は難しそうだ。いつからかなんとなく気づいてはいた。石だろうが種だろうが何個揃えたって願いごとが叶うはずがない。それでもきつねのこばんを集めていたのは、集めることが楽しかったからだ。就職してから交際している横田という女性に打ち明けると、「じゃあ隠してあげようか」と提案された。
「探すことが目的になってるのなら、藤井くんの部屋のそこかしこに隠してあげるから、もう一度探し直してみるっていうのはどう。願いごとが叶わなかったのも、きっと強く願っていなかったからだよ。今度こそ強めに願いながら、百個揃えてみようよ」
僕が外に出ているうちに、一日かけて横田が石を隠してくれた。空になったアニエスベーのケースを渡されて、「今度は何を願って探す?」と尋ねられる。決まっていなかった。
「探しながら考えるのってありだと思う?」
「なんかないの? 付き合ってる彼女と結婚するとかさあ」
「それは石に叶えてもらうもんじゃないだろ」
それから暇さえあれば石を探した。食器棚のグラスをどけると、ひとつ石を見つけた。まだ願いごとは考えられていなかったが、探し終えるまでには決められるだろうと楽観視していた。しかし不思議なものだ。初詣でお参りする時は、祖母の病気がよくなりますように、だとか、仕事で請け負っている案件がうまくいきますように、などと大雑把に心の中で呟けるのに。冷蔵庫の中に冷えた石をひとつ見つけた。買って数回使ったきり放置していたかき氷機の氷を入れるスペースにもうひとつ見つけた。『捨てちゃいそうなものには隠してない?』と横田にメッセージを送ると、『大丈夫だと思う。安心してちゃんと掃除してね』と返信がきた。ほこりをかぶったたこ焼き器の凹みのひとつにも見つけて、あっという間に十個集まった。このペースで探してしまっては一週間ともたない。この日の探索は切り上げて布団に入ったが、なんとなくスマホのライトをつけて、あたりを照らしてしまう。なかなか寝つけない夜が続いた。
入社したばかりの頃に着ていたコートの襟が黄ばんでいた。そのポケットの中にひとつ。これはへたしたらこのまま捨てそうだったので危なかった。大学の卒業アルバムのカバーの中にひとつ。こんなところにまであるのか。ハンガーラックに置いてあるカラーボックスを引っ張り出す。中には乱雑に高校までの思い出の品々が入っている。ひとり暮らしを始める時に中も確認せずに持ってきたものだ。これ以外のものは実家に置いてきた。中学の体育大会で着たクラスTシャツはプリント部分が貼りついていた。中学卒業の記念で作ったオルゴール付きの木箱を振るとカララと小さく音がする。その中には高校時代の恋人からもらって手紙がしまわれていて、石もふたつあった。あきらかに恨み言だ。こんな地雷だらけのカラーボックスに隠すなよ、と内心で毒づいて、冷や汗をかきながらため息をついた。横田に見られたくなかったし、自分でも見返したくないような、過去のあれこれにはたくさんの石が隠されていた。通知表にマスキングテープで貼りつけられていて、こんな細工もあるのか、と愕然とした。確認済みのメモをするために石を使っていたのではないか、と疑ってしまう。
思い出の品々を見ていると、必然的に当時のことを思い出した。中学の運動部にはどの部にも不良が在籍していて、こわいので卓球部に入った。練習はほとんど休まなかったけれど、大会では結果を残せなかった。ラケットを握ると妙に安心した。ラバーの部分に石が貼りつけてある。高校は商業科に進学して、資格取得に励んだ。情報処理の資格は満点で合格して、安っぽいトロフィーをもらった。僕の人生で、最初で最後のトロフィーだ。そのカップの中にひとつ。もういつのことなのか覚えていないが、どこかのホテルでやっていたビンゴ大会でもらった36色入りの高級そうな色鉛筆セットの中にもひとつ。当時は画家になるかもしれないと思っていたが、一本も欠けずに残っている。それでも一度も使用されていない色はなかった。なんとなく一所懸命に生きてきた気がしていたけど、思えばどの記憶も中途半端だった。高い目標を立てるわけでもなく、進歩するための努力も工夫もせず、与えられたものだけで消去法で生きてきた。半分ほど集まった石に指を突っこむ。冷たい。卓球の練習も、試験勉強も、どれもきつねのこばんと同じだ。
ひと月経つ頃に焦りが生じ始めた。きつねのこばんは残り六個で揃うところまで集まっていた。願いごとは決まっていないが、それどころではなかった。このままでは全て見つからないのではないか。背中にそわそわと汗を浮かべながら、食器棚を何度も隅々まで見た。本当に見つけられる場所に隠したのかと横田に尋ねた。彼女は「隠せられたのだから、見つけられると思うけど」と言いつつも、詳細な隠した位置までは覚えていないという。
仕事中も常にどこに石が隠されているのか気になって落ち着かなくなった。部屋の中のどこに見落としそうな場所があるだろう。どこをまだ探せていないだろう。横田は「いっしょに探すよ」と言ってくれたけれど断った。断った理由は言語化できていない。横田は「足らない分の石はまた外で拾えばいいんじゃない」と提案してくれたけど断った。断った理由は言語化できていない。帰り道に、気がつけば公園の真ん中でしゃがみこんで地面を撫でている。それっぽい石は見つかったがあんまりきれいじゃなくて拾わなかった。パンパンと手に付着した砂を払って、足早に家に向かう。帰宅して早々にテレビ台の引き出しの中を漁った。やはり見つからない。引き出しをもとに戻しながら、ふいに目頭が熱くなった。きつねのこばんを揃え直したところで人生は何も好転しないどころか少しの変化もないんじゃないか、とずっと考えている。予感している。気づいている。知っている。もしもさっき公園にあった石をこの部屋で見つけていたら、嬉々としてアニエスベーのケースにしまっていただろう。意味なんてないのに。意味なんてないのに、どうしてこんなにこれまで自分が拾ってきた石でなければならないのだろう。
横田は申し訳なさそうにしていた。ある日、うちに来ると言っていたのに彼女はなかなか現れなかった。電話をかけるとすんなりと出た。彼女の声は普段どおりで、すぐに帰るとのことだった。そして本当に十分もせずにドアが開いた。
「ひとつ見つけたよ。きつねのこばん」
横田の手は砂でカサカサになっていた。しかし渡された石を僕は拒んだ。違うのだ。僕は、自分で集めてきた石を自分で見つけたいのだ。彼女は唇を萎ませながら「願いごとは考えたの?」と聞いてくる。「まだ決まってないよ」「もう百個になっちゃうよ」と会話をしながら、横田は手を洗う。僕はハンガーラックのあたりを捜索する。
「じゃあさ、かわりに私の願いごとを叶えてよ」
「結婚だったら、石に叶えてもらうもんじゃないからね」
「違うよ。週末、美容院に行くから、いい感じの出来栄えになってほしいの。あと日曜に、ドライブに行くでしょ。喧嘩せず、首尾よくデートが終わって、事故することなく無事に帰ってきたいね」
「そんなこと?」
「そんなことってなによ。とても重要なことじゃない。だって私、髪を染めるんだよ。期待どおりの色にならなかったらがっかりでしょうが」
愕然とした。きつねのこばんを百個集めてまで叶えるのが、そんな穏やかに日常に横たわっているような願いごとだなんて。僕も試しに考えてみる。週末のデートは晴れてほしいし、道は渋滞しないでほしい。今抱えている仕事がつつがなく成功してほしい。明日は行きつけの弁当屋で人気のとんかつ弁当が売り切れませんように。不思議だった。こんな、例えば雨が降るか降らないかのような、悪い方に転んでもちょっと悲しい思いをするくらいの二択の、どちらかといえばこっちがいいと感じる程度の些細な願いごとで、本当にいいのだろうか。神社で咄嗟に思いつくこともないような願いごとだ。うんうんと唸っていると、横田も不思議そうな表情を浮かべた。
「何が違うの? 今晩の晩ご飯がおいしいかおいしくないか、だったら、おいしい方がいいでしょ。私と付き合うか付き合わないか、だったら付き合ってよかったでしょう。それのどこが違うの? 人生ってのは何もかも二択なわけだよ。選択をミスったら後悔して反省して、良き選択をする精度を上げていくわけね。藤井くんも数々の二択を経て、私と付き合うか付き合わないかという二択で、付き合うっていうすばらしい選択をしたんでしょ。だから、そんなのてきとうにお願いしちゃえばいいんだって。次に人生で立ちはだかる二択で、良い方を選べますように、で。それでうまくいった時に、きつねのこばんのおかげだったことにできるじゃない。そしたら、集めた藤井くんの努力の結果になるんだから」
「なんだそりゃ。こじつけじゃない?」
「こじつけかこじつけじゃないかっていったら、こじつけだね」
釈然としないままハンガーラックに置いてある段ボールの中の思い出の品々を掻き分ける。やはり石はない。この中途半端な出来栄えだった思い出たちも僕が二択を選んできた成果なのだろうか。横田はソファーに横たわって寝息を立てている。かけてあるシャツのポケットを確かめる。ない。先ほど脱いだばかりのスーツの内側のポケットの中を指で探る。思えば、これまで見ていなかったような気がする。しかしない。そういえば、と、通勤用のリュックサックのチャックを開ける。毎日使っているものだから、確認していなかった。なんの捻りもなく、リュックサックの底にひとつあって、つい歓喜の声が出た。横田が「お、あった?」ともにゃもにゃした声で言う。
「これ、さっき横田さんが持ってきたやつじゃないよね」
「私ずっと手に握ってたから違うよ」と、彼女は摘んで見せてくれる。
引き続きリュックサックを入念に調べていく。毎日、仕事で中を開いているはずなのに、石が隠されていたなんて驚いた。とはいえ考えてみれば、リュックサックにふれる機会は、財布や職場に入るためのカードキーを取り出す時か、折りたたみ傘を取り出す時か、帰り道に買ったものをしまう時くらいだろう。いつから入れてあるのかまるで記憶にないポケットティッシュが入っている。砂場のように乾燥しきっているティッシュを全て出してみるが、石は入っていなかった。印鑑ケースの中にもない。これ以上はないかとリュックサックを元の位置に戻そうとしたところで、ショルダーベルトに括りつけてあるお守りに気がついた。紐を緩めてお守り袋を逆さまにすると、中からひとつ出てきた。罰当たりではないだろうか、と僕は苦笑した。リュックサックから他にきつねのこばんは見つからなかった。アニエスベーのケースに見つけた石を入れた。あと四個でもとどおりだ。
「願いごとはどうするの?」
「恋人と結婚できますように」
「それは石に頼んないでよ」
横田がソファーから立ち上がり、軽い足取りでこちらに寄ってくる。隣までくると彼女は拾ってきた石を勝手にアニエスベーのケースに入れた。すぐに彼女の入れた石がどれなのか分からなくなる。案外悪い気はしなかった。横田は「藤井くんが明日定時で上がれますように」と目を瞑って手を合わせる。すぐに目を開いて僕の顔を見上げると、「で、きみは何をお願いする?」と尋ねてくる。「ふたつもお願いしていいの?」と僕は目を見開いた。そんなのありなのか。しかも他人に対するお願いをするというのも考えたことがなかった。僕は負けじと、「明日、横田さんが嫌いな上司に叱られませんように」と手を合わせる。「それは本当に切実だよ」と横田は笑った。
翌日、僕は定時で仕事を上がった。帰り道に近所の公園に立ち寄った。昨日きつねのこばんを見つけたあたりでしゃがみこんで、砂を掻き分ける。すぐに琥珀色の半透明の石を発見した。昨日より幾分かきれいに見えた。それを摘んで、指先でこねこねと撫でながら家に帰った。家には既に横田がいたので、ただいまと言ってから彼女に拾ってきた石を見せつける。横田はにんまりと頬を緩めると、僕と同じように手を掲げた。その指にもきつねのこばんが摘まれている。アニエスベーの箱にふたつの石が加わる。残りひとつで百個だ。
「給湯室でコーヒーをこぼしたことが誰にもバレませんように」
「石を入れる度にお願いごとするの?」
「だめかな」と横田が首を傾げる。別にだめではないだろう。
「横田さんがコーヒーをこぼしたことを素直に謝りますように」
そのまた翌日も同じように石を探して持って帰った。横田も同じように石を持って帰ってきていた。「百個目は藤井くんが入れなよ」と横田に譲られたが、ちょうど百個目を入れた時のお願いが叶うというわけでもないだろうし、そもそも、もはやルールなんてあったものではない。それによくよく考えてみれば、意味のない石なのだ。どっちが先でも構わない。それでも僕は首を横に振って、横田に先を譲った。彼女は目を瞑り手を合わせる。何も言わない。数秒待っても黙ったままなので怪訝に思っていると、そのまま目を開いてしまった。
「お願いしないの?」
「したよ」
「何をお願いしたの」
「そういうのって言っちゃうと叶わないのが定石だよ」
横田はあっけらかんとそう言う。何を今更と呆れてしまう。毎回言っていることがめちゃくちゃだ。僕も何も言わずに百一個目の石を入れて、手を合わせた。
それから僕たちは気が向けばそこかしこの地面をさらさらと漁ってきつねのこばんを探した。見つけるとアニエスべーのケースに入れて、その度に願いごとをした。叶ったものもあれば、叶わなかったものもある。その全てが、石のおかげでも、石のせいでもないのだと思う。それでもひとつ、またひとつと石をケースへ入れる度に、ほんの少しだけ僕たちの人生はいい方向に向けて進んでいるような気がするのだった。根拠はないけれど。
もしかしたら死ぬまでに千個集まってしまうかもしれない。
「明日晴れますように」と、僕と横田は口を揃えて石を入れた。
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