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春も夏も虫が出るから嫌いだった。季節はちょうどその真ん中くらい頃。
子どもを連れて近所の公園へ行くとAさんがいた。生活感丸出しの色褪せたTシャツに丸い背中、ツヤっけのない一つ縛りの黒い髪。Aさんだとすぐにわかる。
(うわぁ……)
この公園はけやき公園と呼ばれていた。公園の中央に大きな欅の木があって、ほどよく木陰があり、ほどよく遊具があり、ほどよく広いので、ほどよく人気があった。
だから、この公園で顔見知りになるママ友は多い。Aさんもその一人だ。
娘が砂場へかけていく。Aさんの息子も砂場で遊んでいる。
「こんにちは」
砂場のベンチに座るAさんに挨拶をした。
「こんにちはぁ、天気いいですね」
Aさんは立ち上がり、私のそばに寄ってきた。
私はこの距離感の近さが好きになれない。テレビで見た漫才師みたいに近寄って話すのはやめてほしい。そんなことは言えるはずもなく、わずかに後退りをして愛想笑いをした。
「そうですね」
子どもたちはまだ小さくて一緒に遊ぶわけでもない。
一人は砂場の中央。一人は端っこでそれぞれ砂と玩具をいじっている。
「お昼はそうめんかな」
「あはは、いいですね」
こちらのAさんがどうでもいい話を続ける。
「何にします?」
「まだ決めてないです」
「そうめんのとき、おかずってどうしてます?」
「さぁ」
素っ気なく返して、何となくあしらうと、私はスマホを取り出した。
仲のいいママ友を呼び出すのだ。
ーー公園にAが出現中
ーー来れる人いる?
すると、何人かが「行けるよ」と返事をくれた。
私は胸を撫で下ろす。そうなれば少しの間我慢するだけ。
ママトモAガ ナカマヲ ヨンダ
ふと娘が泣き出した。
(タイミング悪いな)
もう少し早いタイミングで泣いてくれたら、それを理由に公園から帰れたのに。
「どうしたの?」
娘は泣きながら私にしがみつくと、地面を指差す。地面には小さくて黒い蜘蛛が這っていた。
呼んでもいないのにAさんが近づいてきた。
「ああ、蜘蛛ですね」
そういうと、Aさんは蜘蛛を靴で踏み潰した。
「もう大丈夫」
踏んだ方の足をぐりぐりと地面に擦り付け、Aさんは朗らかに笑みを浮かべている。背中がひんやりと冷えていく。
「蜘蛛って大食らいらしいですよ。自分より大きな鳥とか虫とかを食べるのもいるらしいですから」
そんな話は聞きたくもない。
今すぐにでもここから出ていきたかった。でも、皆を呼んでしまったのに、今更帰るとも言い難い。
(みんな早く来て!)
せめて娘と砂場から離れたかったが、娘はしれっと砂場へと戻っていく。
Aさんの息子は砂場から離れ、滑り台に一人よじ登っていた。
(息子のところへ行けよ)
心のなかで悪態をついても、Aさんには届かない。
「私、H市から引っ越してきたんだけど、そこで吸血鬼が出たんだって」
蜘蛛を潰したことなど気にする様子もなく、Aさんは喋り始めた。
「体が溶けた死体が見つかっていて、血が抜かれた痕跡があるらしいよ」
私はH市の吸血鬼なんて噂知らないし、興味もない。
「へー」
冷たく返事をして、スマホをいじる。
その時、
「こんにちは」
公園の入り口に友人が現れた。
「それじゃあ」
ホッとした私はAさんに愛想笑いをして、娘を連れて友人の元へと向かった。
ママトモBガ アラワレタ
友人の連れてきた子どもがブランコへ向かったので、一目散に友人の元へと駆け寄る。
「ごめんね。来てもらっちゃって」
私が小さい声で言うと、
「大丈夫。ちょうど暇だったから」
そう笑ってから友人はちらっとAさんを見た。
「わかるよ。気まずいよね」
「わかる?」
「わかるわかる」
友人は力強く頷いた。わかってくれることがありがたい。
「早めに帰ろうと思うんだけど」
「なんで?」
「何か怖くて」
Aさん親子は滑り台から、鉄棒へと移動していた。ブランコの位置からは遠いところにいるけれど、話していることをAさんに聞かれたくない。私はスマホを開き、Aさんが蜘蛛を踏み潰したことを書いて友人に送信した。それを読んだ友人は顔を曇らせる。
「怖いね」
「怖いでしょ?」
「時々会うけど、いつも公園の端の方で子どもと二人だけで遊んでいるけどなぁ」
友人は首を傾げる。
でも私には心当たりがあった。
「それって、こっちが誰かしらと一緒にいる時じゃない? あの人、一人の時にしか寄ってこないから」
いつも一人の時を狙って話しかけてくる。今日もそうだった。
「そうなの?」
「うん。一対一でしか話せないタイプなんじゃない?」
「何それ。弱〜」
二人で笑っていると、
「こんにちは〜」
と、声がした。
ママトモC、ママトモDガ アラワレタ
友人と仲の良いママ友が二人揃って公園にやってきた。私も顔見知りだったけれど連絡先まで知らなかった。心配して皆に声をかけてくれたみたいだ。友人の社交性に感謝だ。
「四人に増えたら、尚更話しかけて来ないよ」
あとから来た二人も、やはりAさんを知っていた。
「あの人、毎日来てるんじゃない?」
「いつも物欲しそうにしてるよね」
「物欲しそう?」
「誰か来ないかなぁって」
「話し相手?」
「自分から話しかけにくいのかな」
「一人の時は話すよ」
「やっぱり一対一はNGだ」
私たちはクスクスと笑った。
ママトモタチハ クスクスト ワラッテイル
すると、また違うママ友たちがやってきた。
「おーい」
と、手を振る3人は、それぞれ荷物を抱えていた。
ママトモE、ママトモF、ママトモGガ アラワレタ
私と友人が声をかけたママ友たちがそろって来てくれた。
「なにもっているの?」
「簡易テントだよ」
「あと、アイス買ってきたからクーラーボックスに入れてきた」
「私はパン屋に知り合いがいて、パンを貰ったから食べて」
公園の真ん中のけやきの木陰に簡易テントを貼り、アイスとパンのおやつタイムとなった。
Aさんは息子とブランコで遊んでいた。
「Aさんも誘う?」
あとから来た3人のうち一人が言った。
「来たかったら自分から来るよ」
「今は一人になりたいんじゃない?」
「大人なんだから人見知りってのはないんじゃない?」
一通りの社交辞令くらいできて当然の母親社会。
空気なんて読まなくていいという空気を読んで、私たちは私たちで楽しんでいた。
「そういえば、H市で母親を狙った殺人事件が頻発してるんだって」
友人がポツンと呟いた。
「その死体、体が溶かされていたらしいよ」
アイスを食べながら、顔を見合わせる。
「なにそれ」
「死後、日にちも経っていないのに、干からびていたらしいよ」
「ホラーだわ」
「怖いね」
そんなこと、Aさんも話していた。
「例えば、今わたしたちが消えたら……」
そこまで言って、私はAさんを探した。
いつの間にかいなくなっていた。
風が吹いて、木陰を作っていたけやきがサヤサヤと音を立てる。
「何か、カサカサ音がしない?」
誰かが言う。
「音?」
耳を澄ますと、子どもたちが遊ぶ声と、風が葉を揺らす音の中に、カサカサと何かが動く音がした。
青ざめた友人がゆっくりと顔を上げる。
「……上」
欅の木の葉の繁みに、黒い塊が潜んでいた。
それと目が合い、吐き気がこみ上げる。それは大きな蜘蛛だった。
真っ赤な丸い大きな目が2つ。小さいの丸がその脇にもいくつかついている。黒くて細い足が伸びている。右に4本、左に4本。
自分の体より大きな蜘蛛が、木の上でこちらを見ている。
私たちは悲鳴もあげられなかった。逃げ出そうにも体が動かなかった。
いつの間に張り巡らされた糸の中にいた。
公園をウロウロして、糸を張り巡らせていたのだろうか。
吸血鬼というのは、この蜘蛛に食べられたからではないだろうか。
(Aさん!)
Aさんがまだ公園の近くにいてこの様子を見ていたら、助けを呼んでくれるないだろうか?
ママトモAハ ナカマヲヨンダ!
シカシ、コレイジョウ ヨベナイ!
蜘蛛は長い脚を使って、音もなく木から降りてきた。私に近寄り、
「イイテンキ デスネ」
近い距離から囁いた。
「ソウメンノトキ、オカズッテ ドウシテマス?」
その声がAさんと同じことに気づくと同時に、蜘蛛の上顎は私の皮膚を貫いた。
「ナカマヲ アツメテ ワタシヲ ナカマハズレニシテ サゾカシ タノシカッタデショウ ネ」
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