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蒼ざめた月が顔を覗かせ、廃教会を訪れた男を照らす。
黒いローブを着た青年は音を立てず慎重に扉を開き、警戒しながら中へと入る。フードの下からちらりと覗く唇は、何かを押し殺すように固く引き結ばれていた。
「思ったより遅かったね、アーノルドくん」
声を掛けられて男はフードを外した。金色の髪がさらりと流れ、端正な顔立ちに紫苑の瞳が煌めく。
祭壇に足を組んで腰掛ける銀髪の少女を青年は静かに見据える。
「待たせてすまない天使様。聖騎士団に加え公爵家が雇った傭兵連中も始末する羽目になり少々時間がかかってしまった」
「こうして無事に合流できたならいいよ。僕の方は偶然にも玩具を拾ってね」
天使と呼ばれた少女は無邪気な笑みを貼り付けて両手を広げる。
「姉妹聖母クリスト様とリトリス様の像を男性体で創ってみた」
「……血腥いと思ってはいたが元凶はそれか」
祭壇の両脇に配置された像に違和感を覚えたが青年は忌避感から焦点を合わせようとしない。眼前で嗤う蒼い眼から注意を逸らさずにいた。
「言っとくけど正当防衛だからね?アーノルドくんが僕を一人にするから集団で犯されかけたんだよ。ショジョソーシツの危機ってやつ?それと」
祭壇の下に転がる布で包まれた球体を少女は爪先で示す。
「顔面に虫の落書きしてる奴の首は賞金付きだから別にしといた。首から下はあっちかそっちに混ざってる。ほらほら見てみて、久々の傑作なんだから」
陽気に促されて青年は渋々と二つの悍ましい物体に目を向ける。複数の人体を弄り回して作り上げた二対の女神像が天使の左右で沈黙していた。肉を粘土に骨を積木に、内臓は飾りに血は絵の具代わりに。幼児が戯れに組み立てたみたいな、乱雑で混沌とした玩具の成れの果てじみた外観だ。
「っていうかアーノルドくんさ、いつまでも入口に突っ立ってないでこっち来なよ。これでも僕ずうっと心配していたんだからね?ちゃんと無事な姿を見せてよ」
飄々と言われて青年は無言のまま歩を進める。銀髪の少女は従順な護衛役を眺めて機嫌よさげに賛美歌を鼻で唱い始め、ついでとばかりに光魔法で祭壇周辺を軽くライトアップする。
悪意と遊びで再現された姉妹の母神像は酸鼻たる有様だった。冠は萎えた男根を捻り合わせたもので、翼の代わりに垂れ下がる腸に混ざって皮膚を剥がれた生首がこちらを暗い穴で覗いてる。くり抜かれた眼球は首飾りにされていた。人の皮から成る衣服には削がれた鼻や耳や唇が飾られて、臨月の如く膨らんだ腹からは脳髄が溢れそうになっている。では頭蓋の中には何が詰まっているのか、考えたくもない。
そして近くで観察すれば嫌でも気付く。二体の女神の四対の乳房を模した十六個の心臓が脈打っていることに。
「あれれ?ちょっと顔色悪くない?」
「……そりゃこんな悪趣味な像を見せられてはな」
「元勇者様がこれくらいで動揺するのかい?魔王と戦った時は今より醜悪な造形も残酷な光景も目にしたと思うけど」
少女は台詞を中断し、白銀の髪を靡かせて祭壇から飛び降りる。次の瞬間には青年の背後に立っていた。咄嗟に振り向こうとするアーノルドの脇腹に指先で優しく触れ、労わるように撫でながら天使の甘い声で語る。
「お前の心臓は僕のものだ。流れる血の匂いだって判別できるんだよ……ねえ、ここ怪我してるでしょ?」
「……ッ!」
治癒士の勘ではなく所有者の確信だった。天使の指先にゆっくり力が込められ肌に食い込む。
「アーノルドくんさあ、平和ボケして腕が鈍ったりしてないよね?それとも襲って来た連中に知り合いでもいたかな?……図星か」
脈拍から真偽を見抜いた天使の細く白い指先が離れる。銀髪の少女へと男はゆっくり向き直ったが躊躇いがちに紫苑の視線を揺らしていた。
「お話は後で聴かせてもらうとして、先ずは傷を診せてもらおうか。ほらほら早く服脱いで。僕にお手伝いして欲しいのならそうするけど?」
「……いや自分で脱ぐ」
青年は観念してローブを脱ぎ捨て、鍛えられ引き締まった腹部を晒す。左脇腹には深い傷があったが雑に縫われて血は止まっていた。
「あははっ!下っ手くそな縫合。僕に治癒されるのが嫌で自分で処置したんだね?お莫迦で不器用なアーノルドくん」
天使の指が避ける間もなく裂傷を捉えた。爪先を引っ掛けて縫合糸を乱暴に引き千切ると傷口を確かめるように第二関節まで人差し指を突っ込む。鋭く走った痛みよりも治癒の後に来る副作用を予想して青年は不快そうに顔を顰める。
「臓腑まで傷ついてるけど大丈夫。僕が完璧に癒して卑しめてあげるよ……奇跡のような天使の力でね」
白々しい言葉と治癒魔法の光が青年の傷を侵す。瞬間的に治癒して閉じた皮膚の奥深くでは脳髄まで突き上がる程の快感が腹腔の中でうねっていた。立っていられず銀髪の少女に拝礼するようにアーノルドは片膝を着く。震える拳を床に打ち付け、歯を食いしばって衝動に耐える青年の体内では未だ快楽という蛇が蠢いている。跪く男の苦悩を知りながら微笑む天使は救いの手を差し伸べない。
「ご奉仕が要るなら声掛けて、と言ってもどうせ我慢しちゃうんでしょ?仕方ないから落ち着くまで見守っているね」
少女は近くの椅子に優雅に座り、にこにこ嗤いながら青年を見下す。白銀の髪と蒼眼が眩しい美少女の貌の向こう側にアーノルドは黒髪赤眼の悪魔を幻視した。
「夜の帳の下で男性と女性が二人きり。簡単に発散できる術がすぐ傍にあるのに手を出さないなんて相変わらず度し難い。僕は拒まないんだから遠慮なく犯せばいいのに臆病者かよ……初恋の相手にはそんなに触れ難い?それとも敢えて眺めるだけにして高嶺の花に留めておきたいのかな?初心で鈍感なアーノルドくん?」
愉悦と侮蔑を孕んだ少女の言葉に青年は憎悪の熱を帯びた眼差しを返す。数秒は抑えていたが衝動が怒りに傾き、半ば無意識に唇を開いていた。
「うるさい!いい加減に黙れアレイスト……ッ!」
アーノルドの口からルーナ・シャイナスではない誰かの名前が出てくる。しかしそれは紛れもなく眼前の少女の真名でもあった。青年は失言に気付く。天使は不服そうに眉を顰めた。
「次にその名前で呼ばれるのは殺される時、なんて期待してたんだけどね。こんな二人きりでもない場面で口にするなんて無粋なんだから」
少女はこれ見よがしに溜息を吐く。
「二人きりなら構わないのか?」
アーノルドがゆらりと立ち上がり、音もなく抜刀する。刃の輝きは刹那。次の瞬間には姉妹聖母クリスト様とリトリス様の像が細切れにされていた。肉片は極小の立方体と化している。剣士は刀身を濡らす粘ついた体液を洗い流してから静かに納刀。
「おやおや、殺しちゃうなんて酷いなあ。せっかく生かしておいたのに」
「あの状態で生かしておく方が残酷だろうが。天使と呼ばれたいなら魔王の力は隠しておけ」
「なら今後は僕を一人にしないでよ。ちゃんと傍にいて守ってよね、勇者くん?」
「……天使様の仰せのままに」
アーノルドの言葉と拝礼に満足気に微笑む少女だが、ふと首を傾げた。
「天使って響きに慣れてきたとこだけど、今後は呼び方を変えないといけないかな?天使と元勇者の駆け落ち逃避行に支障をきたすだろうし偽名を考えないといけないね」
「俺には必要ないだろう。魔王の脅威がなくなり平和になった今、元勇者の名前なんて誰も関心を向けない……そもそも魔王を倒した勇者じゃないしな」
「そう卑屈にならないでよ。まあ、これから勇者になる男の名を隠す必要もないしアーノルドくんはアーノルドくんでいいか」
悪戯っぽく笑って少女は続ける。
「僕のことはルーシーとでも呼んでくれ。ルーナのルーとアレイスト・C・ソフェンのCでルーシーね」
「選りに選ってそこから取るのか」
「Cこそが本名の頭文字なんだよ。アレイストとソフェンの部分は、実は名前じゃないんだ……ところで体の調子はどう?そろそろ出発できる?」
「……もう大丈夫だ。君が気を紛らわせてくれたお陰だな」
「ん?僕が何かした?」
態とらしく惚けてみせてルーシーは出口へと進む。アーノルドは寄り添うように付き従う。
「嗚呼、忘れるところだった」
教会の外に出る直前、天使の笑みを貼り付けた少女が振り返った。蒼い満月にも似た瞳が祭壇を囲む残酷劇の有様を一瞥する。
「聖王国アタラクシアでは最後の奇跡になるかな」
左手を掲げて軽快に指を鳴らす。黒い霧が舞台を覆い隠した。
「スリー、ツー、ワンってね」
三秒が経過。霧が晴れた後には全裸のならず者達が寝た状態で並べられていた。全員が傷一つなく元通りに復元されていて、顔に蠍の刺青を掘った大男まで無事だった。
「……ルーシー?一応訊くがどうやって治した?確実に斬り殺したと思っていたんだが」
引き攣った顔でアーノルドが尋ねた。
「細胞単位で延命処置を施しておいただけだよ。調子こいて混ぜ過ぎたから分別して組み立てるのは面倒だったけどね」
「成程」
当たり前のように答えた少女に、一声発してすぐ閉口した青年は呆然となる。
「いつまでも突っ立ってないで行くよ。善は急げだ。早く他の魔王をぶっ殺してアーノルドくんを本物の勇者にしないといけないからね」
無邪気に言ってのけて、ルーシーはアーノルドの手を引く。
「そして最期にはお前に僕を殺してもらうんだ。楽しみだなあ」
天使の美貌で屈託なく微笑む少女に、無理だと思うなんて言えないまま青年は引き摺られるように歩き出す。歪な縁で結ばれた二人の後ろ姿を、蒼い月は祝福するように照らしていた。
これは元勇者が偽りの天使を殺すまでの物語。
或いは元魔王が本物の勇者を創るための物語。
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