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勇者が目を覚ました。
意識を取り戻してすぐ跳ねるように上体を起こす。全身を刺すような痛みは今はない。魔王城での戦いが夢か幻だったみたいに、傷は完全に癒えて体力も回復していた。しかし真っ白な空間を見渡せば未だ悪夢のような光景が続いている。聖騎士ノーゲンの潰れた頭からは灰白色の脳髄が零れていた。魔術師ラニラの生首は哀切の表情で硬直したまま横倒しになっている。
治癒士ルーナは、黒衣の魔王の腕に抱かれていた。足元に切断された膝下の部分が転がっているのを見て勇者は憎悪に突き動かされるまま立ち上がる。使い手の強固な意志に反応した小太刀が自動的に宙を舞ってその手に収まる。アーノルドは一片の迷いもなく妖刀の刃を胸に突き立て真名を呼ぼうとした。
「散」
破砕音と同時に煌めく刃の花弁が散った。
「勇者くんさあ、面倒臭いから自傷行為やめてくれる?せっかく蘇生させたのに死に急ぐなよ」
アーノルドは信じ難い光景に目を疑う。魔王の呆れた声は耳に入らなかった。恐るべき敵を救うべき女を前にして、勇者は驚愕の表情で静止していた。自分自身の胸元から伸びた漆黒の棘が妖刀を砕いたという事実を受け入れられない。しかし恩師の形見でもある小太刀から異能の元となる魂が消え去ったのを天才剣士は感じ取っていた。戦う術であり拠り所を喪失したアーノルドは茫然自失となり立ち尽くす。
「おやおや、ぼんやりしている場合かい?」
これ見よがしに公爵令嬢の衣服を裂いて、魔王の手は胸元に二つ並んだ薔薇の蕾を卑しめる。
「お前が完治して起きるまで態々待っていたんだよ?実際に見せてやらないと信じないだろうから」
アレイストは気怠げに喋りながら、爪の先で引っ掻いてルーナの胸の中央に門となる紋様を刻む。
「お前も僕も愉快に終われる茶番劇を思い付いてね。この器にもそろそろ飽きたし、この子の体をもらうことにしたんだ。勿論お互い合意の上で」
さらりと言ってのけて魔王はルーナの唇を奪う。公爵令嬢は拒むこともなく受け入れて、淫猥に舌を絡めて体液を混じえた。唾液の糸を引いて二人の意図は結ばれる。自他の境界を曖昧にして強固な繋がりが形成される。
アーノルドはあんまりな急展開に目を瞠る。激情が渦巻き脳内での処理が追い付かない。
「さあ、ルーナ。お前を慕う勇者くんの前で別離の誓いを告げるといい」
空を映したような蒼い瞳がちらりとアーノルドを見た。清く澄んだ眼が何かを訴えるように瞬く。
「はい魔王様。求め合う二人が交わした約束は、永遠にして絶対ですもの」
凛とした声で応え、公爵令嬢は優雅に魔王と対峙する。氷の微笑が浮かび桜色の唇がゆっくりと開く。
「ルーナ・シャイナスは黒蝕の魔王アレイスト・C・ソフェン様に……身も心も全てを捧げ、運命を委ねます」
ルーナが言い終える前にアーノルドは声にならない叫びを上げていた。自暴自棄になり最早言葉を紡ぐ余裕もなく駆け出した勇者を阻むべく魔王が黒衣を脱ぎ捨てた。暗黒が膨張、サーカスの天幕が下がるように闇の帳が二人を隠す。アーノルドは渾身の力を込めて殴りかかるが通用するはずもなく弾かれる。ふと落ちていた祓魔の剣に気付いて拾い、剣士は全身全霊で斬り掛かった。黒の帳はあっさり壊れる。闇色の欠片が浮遊して主人の元へと集う。
次いで魔王に斬撃を放つべく構えていた勇者の前に現れたのは一人の少女。それは艶めく白銀の髪を靡かせて、透き通るような肌が眩しい裸身を晒していた。切断されていたはずの右足は元通りになっている。深い蒼の双眸がアーノルドを見つめ、薄い唇が微笑を形作る。
「……ルーナ?大丈夫なのか?」
恐る恐る尋ねた勇者にそれは嘲笑で答えた。
「残念。ルーナ・シャイナスは僕に器を預けて消えちゃったよ」
アレイストは暗黒の粒子を衣に変えて纏い、中性的に転じた声調で嗤う。
「そういやお前にはちゃんと名乗っていなかったね。僕はアレイスト・C・ソフェン。北の果てに君臨する黒蝕の魔王であり」
「ルーナに何をした?彼女を返せ!」
機嫌良く語る魔王の言葉を遮って、アーノルドはその胸倉を掴んだ。
「……淑女の胸に触れるとは無礼な。控えなさいアーノルド」
聞き慣れた氷点下の声色にびくついた勇者は即座に手を離す。即席の演技と声帯模写の効果を確認したアレイストは満足気。
「とまあ、こんな感じで良ければ何時でも再現してあげるよ。遺伝情報も記憶もあの子の構成要素は全て取り込んだからね」
「取り込んだ?何故そんなことを」
「僕がシャイナス公爵家の悪徳令嬢に取って代わるためさ。おや、そんなの許せないって顔だね?でもルーナ本人と交した契約なんだからお前には関係ないよ」
身長差が逆転した二人が睨み合う。祓魔の剣を握り締め、殺気を放つ勇者を魔王は鼻で笑った。
「憤怒と憎悪に任せて僕を殺すかい?無理無理。お前が全快した状態でも実力差は開き過ぎているし、僕がその心臓を操作できることもお忘れなく……加えて今やこの体を傷付けるなんて、勇者くんには無理じゃないかな」
図星を突かれてアーノルドは黙り込む。
「もしもこの肉体がルーナ・シャイナス自身のものだったら?まだ魂は内部で生きていて救う術があるのだとしたら?そんな儚い希望を捨て切れず都合良く思い込んで、お前は自縄自縛に陥るんだ」
アレイストは意地の悪い眼差しで勇者を見上げ、軽く両手を広げてみせた。
「試しに殺してみるかい?どうせ修理せるし斬りたいなら気が済むまでどうぞ?」
抱擁でも求めるみたいに柔らかく微笑んで、魔王は勇者に自分の殺害を勧める。冗談じゃない言葉にアーノルドは深く溜息を吐き、力を込めていた両の掌を開く。唯一の武器である祓魔の剣も手放して、怒りの炎が消えた瞳に苦しげな懊悩を浮かべる。
「教えてくれ魔王、俺はどうすればいい?理由があって態々生かしているんだろ?何でもするからルーナを返してくれ」
「何でもすると言ったかい?なら契約として、勇者くんには魔王を倒してもらおう。僕だけじゃなくて他の三体もね。そしてアーノルドくんは真に勇者として名を馳せる。それが僕と、お前の望みでもあるだろう」
無茶苦茶な要求にアーノルドは真顔になる。
「できるわけがない。一番の穏健派とされる黒蝕の魔王さえ俺は倒せなかったのに」
「魔王四体を贄にすれば絶対の約定で失われた者さえ元に戻せる。本当に助けたいならやるしかないよね。それとも裏切り者の治癒士なんて矢張り救いたくないとか?」
「そんなことはないが、普通に考えて全ての魔王を倒すなんて無理だろう」
勇者が力なく言って俯く。天才剣士と呼ばれたアーノルドの自信は砕かれていた。自信を喪失させた張本人は飄々としている。
「別に一人で倒せなんて高難易度の条件を付けたりはしないさ。信頼できる仲間がいるなら一緒にやればいいし、いないなら僕が手を貸すよ。他三体の討伐については拒否されても協力するけどね。魔王なんて古臭いシステムは人族の身分制度と同様に消え去るべきだ」
語りながらアレイストは落ちた祓魔の剣を拾い上げ、両手に持って観察し始めた。蒼い眼差しは職人のそれに変わる。
「システム?何を言って」
「生まれ方は誰にも選べない。どれ程努力しても才能を磨いても、自分の意思と無関係な家柄や親の罪に縛られ不自由を強いられるなんて社会は間違っている」
システムという聞き慣れない単語に反応した勇者の疑問は敢えて無視して、魔王はルーナから得た情報を開示する。片手間に聖剣に細工を仕込みながら。
一方でアーノルドは、以前にルーナから聞いたことのある話と同様の内容を魔王が語ったことに動揺していた。紫苑の瞳が揺れるのをちらりと見てアレイストは更に勇者を動かすための言葉を紡ぐ。
「弱くて臆病な王侯貴族は強い平民が現れるのを善しとしない。血統や財産なんて脆い土台の上に立つ自分達の地位が脅かされるのが怖いからだ。下賎な元浮浪児が英雄に成り上がるなんてシナリオは誰も望んでいないんだよ。聖王や一部の貴族連中は例え魔王討伐が達成されても難癖を付けて勇者くんを排除する気でいる。成功しても失敗しても帰還すれば待っているのは不当な処刑だ。故にお前にとって魔王との相打ちは最も誉れある死になるはずで、幼心が夢見た英雄譚は妥協した結末を迎える流れだった」
一通り話し終えたアレイストの視線が剣から勇者へと向けられる。真面目ぶった表情から打って変わって悪戯っぽい笑みが形成された。
「聖王国アタラクシアの現国王はたしかタリス三世だっけ?平民出身の小僧を始末するための筋書きに魔王を利用するなんて、随分と舐めた真似してくれるよね。温厚な僕も流石にお仕置しないと気が済まないけど最近の外界事情なんて知らないからさあ……お互いの利益のために利用し合える協力者が欲しいわけ」
魔王は剣を差し出す。
「さあ、アーノルドくん?本物の勇者になりたいのならこの剣を取るといい。僕と一緒に偉大なる聖王様の台本をぶち壊し、少女の夢を叶えてやろうじゃないか」
逡巡は一瞬、勇者は剣を受け取った。
「……うーん、思ってたのと違う。そこはかとなく晴れやかな顔してるのは何故?魔王相手に口約束とはいえ悪魔の契約を交わした勇者の反応じゃないよ」
「俺が誓うのは魔王アレイストじゃない。ルーナ・シャイナスだからな」
「どういうこと?」
「俺は以前ルーナのために勇者になると誓った。君が彼女の意思を引き継ぐのなら、その間はルーナとの契約を継続するだけだ」
「ふうん?まあそれで構わないよ。目的が同じってだけで十分だ。改めてよろしくね、アーノルドくん」
握手を求めて屈託なく伸ばされた手を少し迷った末に勇者は握った。柔らかい感触と少女の温度を肌で懐かしみながら、言葉を返そうとして気付く。
目の前にあるのは氷に喩えられた冷たい微笑みではなく、天使のような無垢で非情な笑顔。見慣れたはずの瞳の蒼はまるで別の色をしていた。
「……よろしく」
名前は呼べなかった。アーノルドの内心を察して魔王は何も言わず笑みを深める。
斯くして世界に望まれない英雄譚は始まった。
魔王を騙る者によって夢物語は崩壊に向かう。
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