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幕開け【天使と元勇者は駆け落ちする】
救国の天使様が第一王子と結婚する。
明日には正式に婚約発表されるという情報一つで聖王国アタラクシアは熱狂していた。特に王城のある聖都アトラシクスには天使の信奉者が集い歓喜の坩堝と化している。お祭り騒ぎは日が暮れても続き、夜が深まっても酒場や大通りは呑み浮かれる人々の笑顔で溢れていた。善良なる国民は天使の如き公爵令嬢と麗しき王子のお似合いな結婚を心から祝福していた。救国とまで呼ばれる治癒士が王位継承者と結ばれることに反対意見を述べる者は狡猾な王族にも腹黒い貴族連中にもいなかった。
魔王アレイスト討伐のために結成された勇者パーティの一員として活躍し、瀕死の勇者を自らの命を懸けて救ったことで神の恩寵を受けたという公爵令嬢ルーナ・シャイナス。かつては黒い噂が尽きない悪徳令嬢と呼ばれた彼女だが、魔王との死闘を経て人が変わったみたいに善良になったらしい。高飛車で我儘な性格は聡明にして謙虚な人格へと転じ、好色と散財の悪癖もなくなったという。中位とされる第四階梯くらいの実力しかなかったが、魔王討伐後は僅か半年で数多の功績を重ねまくり治癒士として初の第七階梯となった。最高位である第七階梯の選定は冒険者ギルド本部及び各職業ギルド、軍隊上層部や高位貴族の意向も関わるため簡単に決まるものではない。元勇者ですら剣士としては第六階梯だった。しかしルーナの治癒士としての実力を疑う者は誰一人いなかったので最速で任命された。
彼女はたった一人で疫病により全滅しかけた村を救い、災害時は率先して駆け付け瀕死の怪我人さえ治療した。現聖王が不治の病に倒れた際は完治させ、隣国との戦争では前線に立ち兵士の治癒と蘇生に尽力し犠牲者を一人も出さずに自国を勝利に導いた。普通の治癒士なら匙を投げるような終末期の病を癒し、患者自身さえ諦める程の致命傷をも修復する奇跡的な治癒の能力。ルーナによって救われた皆が彼女を崇め讃え、いつしか救国の天使という呼び名が着いた。
アタラクシアに属する全ての人が天使の如き公爵令嬢と眉目秀麗な王子の婚姻を祝福し、聖王国の繁栄と安泰を期待していた。唯一人、元勇者であり現護衛職のアーノルド・レナーリオンを除いての話だが。
町外れに建造物としては新しめの廃教会がある。
魔王討伐によって魔族が滅びて以降その需要は下がってはいたが、最近は天使と呼ばれる治癒士の常識外れな活躍により宗教という欺瞞の癒しを必要とする者が激減していた。結果的に信者の半数以上を失った宗教団体は規模を縮小、中央から離れた小さな教会は捨て置かれた。聖王国アタラクシアでの影響力は現在、手の届かない神よりも身近な救国の公爵令嬢の方が勝っていた。
今宵、廃れた小さな教会を一人の少女が訪れた。簡素な衣服に痩身を包むその人物、白銀の髪に青い瞳という身体的特徴が世間で話題となっている救国の治癒士と同じだった。しかし中性的な麗容は危うい雰囲気を纏っており、両眼は陰鬱に淀み天使とは程遠い印象を与える。
青白い月が雲に隠れた。仄暗い闇の中、軋む音を立てて扉を開き少女は教会に足を踏み入れる。
「……なんだ?誰か娼婦でも呼んだのか?」
「娼婦にしては幼いってか貧相に過ぎる。そこらの浮浪娘が迷い込んだんだろ」
「よく見ろよ。貴族みたいな靴履いてら。身ぐるみ剥いでやろうぜ」
「見てくれは悪くねーし銀髪に青目は天使様と同じだな。抱いたらご利益あるかもよ」
「馬鹿、あの陰気な面を見ろ。天使様の可憐な微笑みとは比べもんにならねーだろが」
不幸なことに人々に見捨てられた廃教会はならず者達の根城と化していた。その夜も十数人の男が酒盛りしており、か弱き来訪者は凶悪な赤ら顔の面々に迎えられる羽目になった。
古びた燭台の心許ない灯りの他、心得のある者が光魔法を使用し照らしているため教会内部は思いの外明るい。聖堂の椅子に行儀悪く座った男達が下卑た眼差しを向けるのを少女は全く気にせず通路をゆっくりと進む。祭壇には人相の悪い顔に蠍の刺青を彫った大男が胡座をかいている。大男は酒瓶を傾けながら自分に歩み寄る少女を舐めるように観察し、視線が合うといやらしく笑って口を開いた。
「貧相だが顔は中々の美人じゃねえか。誰のでもないなら俺がもらおう。嬢ちゃんもそのつもりで近付いて来たんだろ?駄賃はやらんが優しく抱いてやるよ」
「この中で一番強いのはお前だよね?全員連れて出て行ってくれない?ここで連れと待ち合わせしてるから邪魔者には消えて欲しいわけ」
下劣な戯言をまるで聞いていないみたいに、銀髪の少女は要求だけを突き付けた。澄んだ蒼の瞳に浮かぶ嘲弄を見抜いて大男の顔は怒りに歪む。
「……は?何言ってんだテメェ」
「話が通じていないのかな?命が惜しいなら去れって率直に言えば理解できるかい?僕今放置プレイされて機嫌悪いからさ、拒めば酷いことになるって予め忠告しておくよ」
「おい!このガキ輪姦すぞ。徹底的に嬲ってやれ」
殺人すら厭わぬ悪意を内包した号令に周囲の男共が一斉に立ち上がる。
「みんな命は要らないのか。じゃあ僕が貰うね」
銀髪の少女は右手を掲げ、軽やかに指を鳴らす。それだけで数十人いた荒くれ者共は皆、苦悶の表情となり胸を押えて倒れ伏した。彼等の心臓は呆気なく停止して、できたての温い骸に囲まれた少女は悪気なく微笑む。心機能を止めた謎の術式は魔法を会得している男達でさえ防ぎようがなく、抵抗もできずに術者が息絶えたことで光魔法も途絶えた。教会内の明度が下がり、陰りを帯びた天使の如き無垢が蝋燭の灯りに揺れる。聖堂に満ちた厳かな静寂を嘲るように桜色の唇が蠢き哄笑した。
「あはは、実に面白おかしき死に顔じゃないか。矢張り苦痛と涙に彩られし絶望の貌こそ僕の愉悦だ」
晴れた空のような蒼い双眸は夢見るように天を仰いだ。少女は己の胸にそっと両手を添えて毒々しい願望を吐き出す。
「早く観たいなあ。可愛い相棒くんの最高潮」
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