初夜 ある村の人々

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初夜 ある村の人々

一年で最も美しい月が夜空に煌めいている。見上げなくても空の大半を占めるその満月に照らされ、周囲は光に包まれていた。けれどその反面、闇は深さを増して地上を暗く染めていく。 影さえも見えない黒い森の中。 孤立したひとつの村に気配は集まり、やがて一人の翁が姿を見せた。 その瞬間、しんと止んだ風に、集まった人々も息をのみ、影に埋もれたまま姿勢を正す。神経が張りつめていく。森の囁きも、川のせせらぎも、静けさをまとって眠りにつき、世界が息を潜めていく。異彩に光を放ち続ける満月に見守られ、深い闇に溶けていく。 ふいに聞こえる太鼓の音。 二本のタイマツに灯されたかがり火が、地上にあるたくさんの影を揺り動かす。 「生贄を祭壇へ」 ゆっくりとした老人の声。 それが翁のものであることは、皆が知っていた。 その威厳ある声が響くと同時に、太鼓の音は境地を極め、闇夜の空気を支配していく。炎までもが激しく揺れ動き、異様な空気が周囲を漂う。鼓膜が震え、心臓が緊張に負けそうになる雰囲気の中、先ほどの声の持ち主の横にそっと綺麗な少女が歩み寄ってきた。 「姫巫女(ヒメミコ)よ」 自分よりも一回りも二回りも年を重ねた翁の呼び掛けに、隣に並んだ少女はビクリと肩を震わせる。 整った顔立ち、華奢な身体、幼さを残した乙女は、着飾った人形のように無表情にたたずんでいた。いや、太陽が昇っている時刻ならば、その顔が青ざめていることなど誰の目にもあきらかだったに違いない。 だが、闇は少女の不安を隠していた。 太鼓の音がいっせいに鳴りやみ、静けさが夜の匂いを運んでくる。 「さぁ、祭壇へ」 どうやら翁は、ここにいる人々の最高権力者のようだった。タイマツに照らされた村人たちの顔は、影の亡者に似て、村の翁に命じられるまま、その身体を一歩前へ踏み出した少女をじっとみすえている。けれど、少女の足はすぐに止まった。 「………っ……や」 ガクガクと膝が震えだしたのだろう。 悲しいことに、情けをかけてくれる人は存在しない。そんなことはわかっている。自分もずっとそうしてきたように、自分を見つめる誰もが冷たい目を向けている。当然の光景。少女は絶望の息を地上へ落とす。 「恐れを捨てよ」 それは希望のない未来への脅迫。 「村の存亡がかかっておるのじゃ」 翁が娘の足を再び進めさせるために低く囁いた。 「今年の姫巫女に選ばれたことを誇りに思うがよい」 翁の言葉を背に感じながら、少女は数段あがったところにある祭壇の頂上へと自身を奮い立たせ、足を運ぶ。 かがり火に揺れるその顔は、心なしか精気を失っているようにも見える。その証拠に、少女は立っているのがやっとだと、全身を震わせていた。 「イヌガミ様、今年の捧げものでございます。どうか今年もわれらの村をお守りください」 祈るように深々と頭をさげてひざまずいた翁にならって、村人たちもこぞって頭をさげる。少女が祭壇にたどり着くまでのあいだ、再開された太鼓の音が宵闇に響き渡っていた。 一秒が数分に、数分が永遠に感じるほどの時の中、甲高い悲鳴が時をつらぬく。 「イヌガミ様だ!!」 「イヌガミ様があらわれたぞ!!」 この世のものとは思えぬほどの崇高な光を放つ美しい狼。なびく銀色の毛並みは月明かりに照らされ、キラキラと星屑をまとわせ、それらを反射した鋭利な瞳で、祭壇から人々を見下ろしていた。 まるで神。長い年月を生きた獣は、畏怖する人々に生け贄として用意された少女へ視線を定めている。ふと、タイマツに照らされたその銀瞳は、血に飢えていた。 「いや…だ…ッ───」 あと一歩というところまできておいて、足のすくんだ生け贄は、恐怖に顔をひきつらせる。そのまま進む方向に背を向けて、祭壇を降り始めた。 「何をしておるのじゃ!?」 「早く身をささげろ!!」 「村を滅ぼすつもりか!」 裏切り者だの、冷酷な女だの浴びせられる罵声は、美麗な神から逃げる少女には届かない。噛みあわない歯を鳴らしながら、迷うことなく祭壇の下まで転がり落ちていった。 「───ッ!!?」 声にならない少女の悲鳴と、群衆の中から複数の悲鳴があがったのはちょうどその時だった。ざわめく群衆の視線をいっしんに集める先には、気を失った姫巫女をくわえた狼がひとり。 ふんっと狼は鼻を鳴らすと、獲物を加えて再び際壇へと飛び上がる。 「おお」 なんと美しい生き物だろう。 白銀の月に照らされたその姿は、この世のものとは思えないほど美しい。 「今年もわが村に災厄があらんことを」 毎年の光景なのか、すぐさま気を取り直した翁の一声で、人々は落ち着きを取り戻していった。列をなおすように膝をつき、頭(コウベ)を垂れる。 「生贄をお納めくださいませ」 最後にそういって深々と頭をさげた翁を銀色の瞳に写しもせずに、少女を咥えた巨大な狼は姿を消した。 残されたのは、生贄の消えた祭壇と、今年の無事を確認し終えた村人たちの安堵の息、そして息をのむほどに美しい満月の光だけ。 「さぁ、宴だ!!」 年儚い娘が、たったいま目の前で連れ去られたというのに、人々は恐ろしいほど陽気な声を上げ始める。 再び響く太鼓の音に、ともされる複数の炎。影は橙色に身を委ねて躍り狂う。大人も子どもも、男も女も関係なく、その祭りは三日三晩行われ続けることとなるが、異様な風習に気を留めるものは誰ひとりとしていなかった。
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